再起動率50パーセント。
再起動率50パーセント。
世界の半分が繋がった。
虚淵は目に見えて縮小し、黒い空に青い隙間が広がり始めていた。各地の魔力の流れが安定し、荒廃した大地に緑が戻り、枯れた泉が再び湧き始めている。川が流れ、風が吹き、鳥が飛んだ。数ヶ月ぶりの──生きた世界の光景だった。
希望は、確かにそこにあった。
しかし──それと同時に、虚淵の抵抗も激化していた。
歪みの怪物が、巨大化していた。
これまでとは桁違いの個体が虚淵から這い出してきた。馬どころか、城壁ほどの高さがある。漆黒の体躯に無数の目が蠢き、口からは存在そのものを消し去る闇の息吹を吐き出す。その息吹に触れた地面は、音もなく消滅した。穴が開いたのではない。そこにあったものが「なかったこと」になったのだ。
虚淵の本質──虚無の具現化。
前線が、押された。
「全軍、後退! あれは──レベルが違う!」
人間の指揮官が悲鳴に近い声で叫んだ。兵士たちが雪崩を打って後退する。魔法の盾が紙のように引き裂かれ、鋼の鎧が飴のように溶かされる。怪物の足が踏み下ろされるたびに大地が揺れ、近づくだけで体の芯が冷える──魂そのものが脅かされている感覚。
通常の戦力では太刀打ちできない。
エルヴィンは、走っていた。
後退する兵士たちの流れに逆らい、巨大な怪物に向かってまっすぐに。
金色の髪が風になびき、白銀の鎧が光を弾く。左頬の傷痕が影を作り、表情に凄みが増している。背中から聖剣を抜き放った瞬間、刀身が白金の輝きを放った。闇を切り裂く光。勇者の象徴。
「俺が止める! 全員、下がっていろ!」
勇者の全力。
それは、見る者の心を打つ光景だった。
エルヴィンが地面を蹴った。身体強化の祝福が全開になり、人間の限界を超えた速度で跳躍する。数十メートルの距離を一息で詰め、怪物の懐に飛び込む。聖剣を両手で構え、巨大な怪物の頭上から振り下ろした。
斬撃が閃いた。
聖属性の光が怪物の漆黒の体を切り裂き、爆発的な衝撃波が周囲に広がる。地面が抉れ、瓦礫が吹き飛ぶ。怪物が咆哮した──しかし、倒れない。
深い傷がついた。漆黒の体に白い亀裂が走っている。だが致命傷には程遠い。聖属性の光が傷口を浄化しているが、虚淵の闇がそれを押し返す。拮抗している。
「くっ──硬い!」
エルヴィンは空中で体勢を立て直し、二撃目を叩き込んだ。怪物の右腕を切断する。黒い血──いや、闇の液体が噴き出し、大地を焦がした。それに触れた草が瞬時に枯れ、触れた石が粉になる。
しかし次の瞬間、切断された腕が再生した。断面から闇が噴き出し、新しい腕の形を作っていく。歪みの怪物は虚淵そのものが具現化した存在であり、虚淵が存在する限り何度でも再生する。
エルヴィンは三撃目、四撃目、五撃目を繰り出した。
聖剣の輝きが夜空を斬る。一撃ごとに怪物の体が削れ、再生し、また削れる。消耗戦だった。
勇者の戦闘力は圧巻だった。
人類最強の名は伊達ではない。四天王を単騎で撃破した実力が、ここに惜しみなく発揮されている。聖剣が振るわれるたびに光が炸裂し、闇を払い、希望を生む。
だが──一人では、足りなかった。
巨大な怪物は一体だけではなかった。さらに二体が虚淵から這い出し、別の要所に向かっている。エルヴィンが一体を抑えている間に、他が前線を突破する。一人の剣は、一つの場所しか守れない。
「グリゼルダ! 東に一体行った!」
「見えている! ──っ、この大きさは……!」
グリゼルダの声にも、初めて焦りが混じっていた。
エルヴィンは聖剣を振りながら、歯を食いしばった。
わかっていた。勇者一人では世界を救えない。どれだけ強くても、一人の剣で守れる範囲には限界がある。
かつて──いや、つい最近まで、エルヴィンは信じていた。勇者の力があれば、どんな脅威も退けられると。聖剣さえあれば、世界は守れると。大戦で四天王を倒したとき、自分一人で世界を変えられると──そう思っていた。
だがこの戦場が教えている。
力だけでは、足りないのだ。
一人の英雄では、世界を救えないのだ。
エルヴィンが怪物に六撃目を叩き込んだとき、足元がふらついた。聖剣の連続使用で体力が削られている。祝福による身体強化も限界に近い。息が切れ、腕が重い。視界の端が暗くなりかけている。
それでも退かなかった。
退けない理由がある。
核心で、ヴァルゼンが世界を繋いでいる。あの男が一人で、目を閉じたまま、世界の全てを背負っている。弱い体で。震える手で。
その間、前線を守るのが──エルヴィンの役目だ。
勇者の力は、魔王を守るためにある。
「はあ……はあ……」
息が荒い。聖剣の輝きが、わずかに鈍った。
怪物が反撃した。巨大な腕が振り下ろされ、エルヴィンは辛うじて横に跳んで躱した。地面が爆砕し、衝撃波で体が吹き飛ばされる。地面を転がり、甲冑が擦れて火花を散らした。
着地した足が膝をつく。
聖剣を地面に突き刺し、体を支えた。
立ち上がった。
聖剣を構え直す。刃はまだ輝いている。
遠くで群衆の声が聞こえた。
「勇者が押されている……!」
「あれは魔王の指示だ。勇者をおとりにして、怪物の注意を引きつける作戦なのだ」
「なるほど……やはり最凶の魔王は戦略が違う」
違う。
指示などもらっていない。ヴァルゼンは目を閉じたまま何も指示していない。エルヴィンが自分の意志で前に出ただけだ。
だが──そんなことはどうでもよかった。
エルヴィンは聖剣を振り上げた。最後の力を込めて。
「おおおおっ!」
聖剣の輝きが最大に達した。
白金の光が怪物を貫き、その巨体を後方に吹き飛ばす。城壁が崩れるような轟音とともに、怪物が地面に倒れた。
倒れた──が、まだ動いている。再生が始まっている。完全には倒せない。虚淵がある限り。
エルヴィンは息を切らしながら、核心の方角を見つめた。
そこにいるはずの、目を閉じた小さな魔王を。
「ヴァルゼン……頼むぞ」
呟いた言葉に、かつてないほどの信頼が籠っていた。
俺の剣だけでは世界を救えない。だがお前なら──お前が繋ぐなら、俺はいくらでも剣を振る。
勇者は立ち上がった。
足が震えていたが、聖剣を構える手は揺るがなかった。
再起動率は50パーセント。
まだ半分。だが──もう半分でもある。




