ザガンは、笑っていた。
ザガンは、笑っていた。
魔族部隊の最前線。虚淵の縁に最も近い、最も危険な場所で、老参謀は長衣の裾を魔力で固め、戦っていた。
参謀は本来、前線に立つ存在ではない。後方で地図と駒を見つめ、冷徹に部隊を動かすのが仕事だ。四百年の軍歴のうち、自ら剣を──正確には杖を振るって前線に出たのは、片手で数えるほどしかない。
しかしこの要所は虚淵の侵食が最も激しく、防衛線が何度も瓦解していた。指揮官が三人続けて戦闘不能になり、部隊の指揮系統が崩壊しかけていた。ザガンは自ら指揮を執り、魔族の精鋭部隊を率いて虚淵の歪みの怪物と対峙することを選んだ。
「陣形を維持しろ! 第三列、詠唱準備! 第一列は交代!」
声は冷静だった。四百年以上の軍歴が、極限状態でも平常心を保たせている。声の一つ一つが明確で、迷いがない。兵士たちは混乱の中でもザガンの指示だけを頼りに動いていた。
しかし身体は正直だった。
長衣の袖の下、左腕が震えている。魔力の消耗が激しい。参謀である以前に高齢の魔族であるザガンにとって、この規模の戦闘は本来なら後方から指揮するべきものだった。四百七十年の歳月は、肉体に確実に刻まれている。
それでも前に立っている。
歪みの怪物が壁を突き破って突進してきた。巨大な──馬ほどの大きさの黒い獣が、四つ足で疾走しながらザガンに向かって牙を剥く。背中のたてがみが闇で出来ており、周囲の光を吸い込んでいる。
ザガンは杖を振った。魔力弾が三発、正確に怪物の弱点を貫く。首の付け根、左前足の関節、胸の核。数百年の経験が生んだ、無駄のない殺し方だった。一発も外さない。一発も無駄にしない。魔力に余裕がないからこそ、一撃で仕留める。
怪物が崩れ落ちる。しかし次の瞬間、背後からさらに二体が飛び出してきた。瓦礫の陰に潜んでいたのだ。
「ザガン様、下がってください!」
若い魔族の兵士が割り込んで斬りかかる。剣が怪物の脇腹を捉え、一体は倒した。だがもう一体の爪が兵士の肩を切り裂いた。血が噴き出す。
「下がるのはお前だ。負傷者は後方へ。──第二列、前進!」
ザガンの指示で隊列が入れ替わる。負傷した兵士が下がり、新手が前に出る。隙のない指揮だった。四百年をかけて磨き上げた用兵術が、この瞬間のためにあった。
だが指揮を続けながらも、ザガンの思考は別の場所にあった。
核心。
ヴァルゼンが立っている場所。
ザガンは知っている。
パーティの中で、おそらく最も正確にヴァルゼンの「真実」に近い場所にいる。
我が王は弱い。
戦闘力はゴブリン以下。攻撃魔法は暴発する。剣を持てば腰が引ける。あの怯えは演技ではなく、あの震えは本物だ。
ザガンはそれを、仕え始めた初日から察していた。長年の軍人としての眼力は伊達ではない。ヴァルゼンの挙動の一つ一つから、「この方には戦闘の心得がない」ことを読み取るのは容易だった。
先々代と先代に仕えた四百年。どちらも圧倒的に強大な魔王だった。力で支配し、力で秩序を保ち、力で世界を維持した。先々代は恐怖で、先代は威厳で──どちらも「力」を軸にした統治だった。
そして二人とも──力だけでは世界を守り切れなかった。先々代は内紛で倒れ、先代は孤独の中で燃え尽きた。
三代目の魔王は、力を持たなかった。
その代わりに──何を持っていたか。
ザガンは覚えている。
即位直後のヴァルゼンが最初にしたことを。
玉座に座らされた瞬間、怯えきった顔で周囲を見回し──最初に口にした言葉が、これだった。
「あの、ゴブリンの人たちは無事ですか」
ゴブリンの「人たち」。
魔族社会で最底辺に位置するゴブリンを「人」と呼び、その安否を真っ先に気にかけた魔王。
居並ぶ将軍たちの顔が引きつったのを、ザガンは覚えている。「このお方は何を言っているのだ」という空気が流れた。当然だ。魔王が最初に気にすべきは軍の再編であり、勢力圏の維持であり、残存兵力の確認であるはずだ。
しかしヴァルゼンは──最底辺の、最も弱い者の安否を訊いた。
あのとき、ザガンの中で何かが決まった。
弱い王だと知っている。
知っていて、仕えた。
先代が孤独に世界を維持し、燃え尽きたのを見てきた。力で全てを背負い、力で全てを解決し、最後には力すら足りなくなった。あの悲劇を繰り返させないために──ザガンは、力とは違う何かを持つ王を選んだ。
その選択は──間違っていなかった。
「ザガン様! 虚淵の侵食が加速しています! このままでは要所の結界が──」
「慌てるな」
ザガンは前を向いた。
虚淵から新たな歪みの怪物が溢れ出している。先ほどより大型の個体が三体。部隊の戦力では受け切れない。
だがザガンは退かなかった。
「我が王のために」
静かに呟いた。
杖を構え、全魔力を集中させる。老いた身体が軋む。四百年の歳月が削った魔力の残滓を、最後の一滴まで搾り出す。杖の先端が白く発光する。
「──全軍、聞け!」
ザガンの声が戦場に轟いた。
冷静な指揮官の声ではなかった。もっと生々しい、感情の籠った声だった。四百年間、こんな声を出したことはなかったかもしれない。
「我らが王は弱い。それを知っている者もいるだろう」
兵士たちが一瞬、動きを止めた。
敵も味方もない、静寂の一瞬。
「だが──弱い王が今、世界を救おうとしている。力もなく、武器もなく、ただ世界を繋ぐためだけに、あの場所に立っている」
ザガンの琥珀色の瞳が、核心の方角を見つめていた。見えるはずのないヴァルゼンの姿を、確かに見ている目だった。
「四百年、三代の魔王に仕えた。先代も先々代も強大だった。しかし──」
ザガンの尾が、大きく揺れた。感情を抑えきれていなかった。尾の動きでバレるのは恥ずべきことだが──今はもう、構わなかった。
「あの方ほど仕えがいのある王はいなかった。我が王のために──この場所を守り抜け!」
咆哮が上がった。
魔族の兵士たちが一斉に吠えた。角を持つ者も、翼を持つ者も、尾を持つ者も。種族も部隊も関係なく、全員が声を上げた。大地が震えた。
「我が王のために!」
その声は、戦場を震わせた。
遠くで見ていた人間の兵士たちが、息を呑んだ。
「あの魔族の参謀……あそこまで命を賭けるのか」
「四百年仕えた老臣が、あれほどの忠義を。魔王への忠誠は──本物だ」
「やはり、あの魔王は──本物なんだな」
ザガンの部隊が要所の防衛に成功した。
怪物を押し返し、防衛線を再構築し、侵食の速度を食い止めた。壊滅寸前だった前線が、一人の老参謀の声で息を吹き返した。
戦闘が一段落し、ザガンは空を見上げた。
虚淵に覆われた黒い空の向こうに、核心がある。目を閉じた魔王が、一人で世界を繋いでいる。
我が王。
世界を、お願いします。
声には出さなかった。
ただ空を見上げ──微かに、頷いた。
尾は、まだ揺れていた。




