最終決戦が本格化していた。
最終決戦が本格化していた。
虚淵から溢れ出す歪みの怪物は、時間が経つにつれてその質を変え始めていた。序盤の雑兵じみた群れから、より大型の、より凶悪な個体が混じるようになっている。表皮が硬質化し、通常の剣では刃が立たない個体。複数の腕を持ち、同時に複数方向を攻撃する個体。そして──再生能力が異常に高い個体。
各要所で激戦が繰り広げられる中、核心のヴァルゼンだけが変わらなかった。
目を閉じて、立っている。
ただそれだけ。
後方の丘に陣取った群衆──戦場を見守る商人や旅人、近隣の村から避難してきた住民たち──の間で、議論が白熱していた。人数はいつの間にか増えていた。最終決戦の噂を聞きつけて、大陸中から見物人が集まり始めている。
「だからよ、あの魔王は何をしてるんだって話だよ」
太った商人が腕を組んで言った。赤ら顔に汗が浮いている。彼の隣で、痩せた書記官風の男が首を振る。
「何もしていないように見える、ということ自体が重要なのだ」
「どういう意味だよ」
「考えてもみろ。戦場のど真ん中で、あれだけの怪物が暴れている中で、微動だにしない。それができるか? 普通の人間に」
「……まあ、無理だな。俺なら小便を漏らして逃げ出す」
「つまりあれは、戦場を完全に超越しているということだ。恐怖も動揺も存在しない境地」
「へえ……」
商人が感心している横で、元兵士の老人が別の見解を述べた。白い口髭を撫でながら、鷹のような目で核心を見つめている。
「わしはな、あれは『無為の極致』だと思う」
「ムイのキョクチ?」
「何もしないことが最強の戦術ということだ。古の兵法書にも書いてある。わしが従軍した四十年前の戦いでも、名将と呼ばれた男は戦場で茶を飲んでおった」
「茶を?」
「そうだ。周りが血みどろで戦っている中で、一人だけ悠然と茶を飲む。それだけで味方の士気が跳ね上がり、敵の戦意が折れる。あの魔王はそれと同じことをしているのだ」
「でも実際、何もしてないんじゃ──」
「黙れ馬鹿者。あの魔王は何かをしているから何もしていないように見えるのだ。わしの目は騙せんぞ」
騙せていた。完全に騙せていた。
壮大に的外れな議論が繰り広げられていたが、ヴァルゼン本人にそんな意図は微塵もない。
ヴァルゼンは超越もしていないし、無為の極致でもないし、お茶など飲んでいない。目を閉じた意識の中で、世界の魔力の糸を一本一本繋いでいるだけだ。外から見えないだけで、これ以上ないほど必死に「何か」をしている。内心では「誰か助けてくれ」と叫んでいる。
だが、群衆にそれが伝わることは決してなかった。
戦場では、各メンバーが全力で戦い続けていた。
エルヴィンが聖剣を振るうたび、前線が押し返される。怪物の体を一刀両断し、金色の刃が弧を描く。その姿は英雄譚の一幕そのもので、見ている者の心を震わせる。
グリゼルダが大剣で防衛線を維持し、銀髪をなびかせながら怪物の群れを食い止める。彼女の背後を守る魔族の部隊が、ザガンの指揮のもとで援護射撃を行う。
フェリクスが管制塔から術式を制御し、ミラベルが休むことなく負傷者を癒す。
その全てが──ヴァルゼンの「繋ぐ」作業を守るために。
再起動率が25パーセントを超えた頃、最初の目に見える変化が現れた。
虚淵の縁が──ほんのわずかだが、後退した。
黒い空の端が、ほんの数メートルだけ縮んだ。消えたわけではない。ほんの一歩だけ、世界が取り戻した。夕暮れの空に、髪の毛一本ほどの青い線が見えた。
最初に気づいたのは、丘の上の群衆だった。
「おい……見ろ。虚淵が」
「縮んでる……のか?」
「いや、気のせいだろ。あんなものが縮むわけが──」
「縮んでる! 確かに縮んでる! さっきより空が青い!」
ざわめきが広がった。
そしてその視線は──自然と、核心で目を閉じているヴァルゼンに集まった。
「あの魔王が何かしたのか?」
「何もしてないだろ。立ってるだけだぞ」
「立ってるだけで虚淵が縮んだ……?」
「……まさか」
「まさか、だろう。あれが──最凶の魔王の力なのか」
群衆の声が、畏敬に変わっていった。太った商人も、痩せた書記官も、元兵士の老人も、全員が口を噤んで核心を見つめている。
戦場でも同じだった。
兵士たちは虚淵の縮小を目の当たりにし、その原因が核心にいる魔王にあると直感的に理解した。
理解した──と言っても、正確には「誤解した」のだが。
「魔王が虚淵を消しているぞ!」
「目を閉じているだけで! あの方の力は一体──!」
「さすがは最凶の魔王だ! 我らの王を信じろ!」
士気がさらに上がった。
兵士たちの剣が力を取り戻し、魔法の威力が増す。魔力循環の安定化が全軍の底力を引き上げ、それが「魔王の加護」としてさらなる誤解を生む。そして士気が上がることで戦闘力が増し、要所の防衛が強化され、ヴァルゼンの作業環境がさらに安定する。
好循環だった。
とんでもなく的外れな好循環だが、結果として戦場は良い方向に動いていた。
ヴァルゼン本人は、もちろんそんなことは知らない。
目を閉じた意識の中で、ひたすら糸を紡いでいた。内心では「もう無理だ」と「でもやるしかない」が交互に繰り返されている。
再起動率──30パーセント。
虚淵の一部がさらに縮小した。
黒い空に、わずかな隙間が生まれる。その隙間から差し込んだ光が、荒れた大地を照らした。光の筋が地面に落ち、そこから小さな花が一輪、咲いた。
「空が……戻ってきた」
誰かが呟いた。
丘の上の群衆が──戦場の兵士たちが──空を見上げた。
虚淵に覆われていた空の一角に、青が見えた。雲が見えた。太陽の光が、久しぶりに地上に降り注いだ。
「何もしてないのに、虚淵が消えてるぞ……」
群衆の間から、畏怖の囁きが広がっていく。
「何もしてないんじゃない。あの方は──最初から、全てをやっているのだ」
元兵士の老人が、震える声で言った。白い口髭の下の唇が、感動で歪んでいる。
「これが──最凶の魔王の力だ」
違った。
全然違った。
ヴァルゼンの内心では「30パーセントってあと70パーセントもあるんですが!? 無理! 絶対無理! でもやるしかない! 誰か代わって! 代わる人いないんだった!」と絶叫が続いていた。
だが、その絶叫は誰にも聞こえない。
世界が見ているのは──何もせずして虚淵を退ける、最凶の魔王の姿だけだった。




