西の救護陣地で、ミラベルの手が止まらなかった。
西の救護陣地で、ミラベルの手が止まらなかった。
救護陣地は核心から最も離れた安全圏に設営されていた。白い天幕が並び、簡易ベッドが並べられ、治癒の香が焚かれている。本来なら静謐であるべき場所だ。
しかし今は地獄だった。
担架が次から次へと運ばれてくる。斬撃による裂傷、歪みの怪物の酸による火傷、魔力の暴走による内臓損傷。肉が裂け、骨が露出し、意識を失った者が絶え間なく搬送されてくる。人間も魔族も関係なく、傷ついた兵士たちがミラベルの前に積み上げられていく。
「浄化をお願いします! この兵士、虚淵の汚染を受けています!」
「ミラベル様、東の防衛線から重傷者が八名!」
「魔族の兵士が意識不明です! 急いでください!」
声が飛び交う。ミラベルは返事をする暇もなく、治癒の杖を振り続けていた。つば広の帽子がずり落ちかけているが、直す余裕もない。
淡い金色の光が傷口を塞ぎ、汚染を浄化し、折れた骨を接合する。ミラベルの回復魔法は大戦の頃から格段に成長していた。一度に複数の対象に効果を及ぼす広域治癒を展開しながら、重傷者には個別の高密度治癒を施す。聖都の大神殿で修行を積んだ才能が、この極限の状況で真価を発揮している。
しかし──限界は確実に近づいていた。
ミラベルの魔力は有限だ。
いくら才能があっても、これだけの規模の戦場で全ての負傷者を治し続けるのは不可能に近い。杖を握る手が震え始めていた。指先の感覚が薄れ、視界がちらつく。帽子の下の亜麻色の髪が汗で額に張り付いている。
魔力が枯渇し始めている。
「ミラベル様、お顔の色が──」
「大丈夫です」
嘘だった。大丈夫ではない。翡翠色の瞳の奥が疲労で霞んでいる。しかし止まるわけにはいかない。目の前の負傷者が助けを待っている。それだけが、ミラベルを立たせていた。
次の担架が来た。人間の騎士。右腕が千切れかけている。血が夥しく、顔面が蒼白だ。ミラベルは震える手で治癒の光を当てた。
光が、弱い。
さっきまでと明らかに違う。出力が落ちている。金色の光が薄く揺らぎ、傷口の修復が遅々として進まない。
「……っ」
ミラベルは唇を噛んだ。もっと、もっと魔力を──
体の奥から力を搾り出す。内臓が軋むような感覚がある。それでも──光を、途切れさせない。
そのとき、不思議なことが起きた。
杖を通じて流れる魔力が、ほんの少しだけ──滑らかになった。
まるで詰まっていた管が通ったように、魔力の流れが改善されている。杖が急に軽くなったわけではない。しかし魔力を引き出す際の抵抗感が、明確に減っていた。
「え……?」
ミラベルは顔を上げた。
変わったのは自分ではない。周囲の魔力そのものが、わずかに安定し始めていた。
大地の魔力。空気中の魔力。世界に満ちている魔力の流れが、ほんの少しだけ本来の状態に近づいている。
回復魔法は術者の魔力だけで動くものではない。周囲の環境魔力を触媒として利用する。その触媒の質が改善されたことで、同じ治癒効果をより少ないエネルギーで達成できるようになっていた。
何が起きているのか。
ミラベルは救護陣地の外に目を向けた。遠く──核心の方角。ヴァルゼンが立っている場所。距離があって姿は見えない。しかしミラベルの天性の共感力が、そこに何があるかを感じ取っていた。
あの方が、魔力の流れを繋いでいるのだ。
ヴァルゼン様が世界を直しているから、私の魔法が楽になっている。
ミラベルの翡翠色の瞳が、潤んだ。
「ミラベル様?」
「なんでもありません……っ」
涙を拭う暇もなく、次の患者に向き合う。騎士の腕を繋ぎ終え、止血を確認し、次の担架に移る。
治癒の光が、さっきより強く輝いていた。ヴァルゼンが繋いだ魔力の流れが、ミラベルの魔法を内側から支えている。まるで──あの方が、遠くからミラベルの手を添えてくれているような。
ミラベルだけではなかった。
戦場の各所で、魔法使いたちが同じ変化を感じ取っていた。
「おい、魔力の流れが安定してきたぞ」
「術式の消費効率が改善されている。なんだこれは。さっきまでの半分の魔力で同じ効果が出る」
「魔王の加護だ。魔王様が全軍に力を送ってくださっているのだ」
治癒師団の僧侶たちが口々に囁く。天幕の中で、治癒の光が一斉に明るさを取り戻していた。
実際には、ヴァルゼンは「力を送って」いるのではない。途切れた魔力循環を繋ぎ直しているだけだ。それが結果として、世界中の魔法の効率を向上させている。人体で言えば、血管の詰まりを解消しただけ。しかし血流が改善されれば全身の機能が回復するように、魔力循環の修復は世界全体に波及する。
だが外から見れば──魔王が全軍に加護を授けている、としか解釈できなかった。
「さすがは最凶の魔王様だ……! あの方の加護があれば、勝てる!」
士気が上がっていた。
ヴァルゼンの意図しない「加護」が、全軍の心を鼓舞している。実態は誤解だが、その誤解が兵士たちに勇気を与え、治癒師団に希望を与え、戦場全体を前向きにしている。
ミラベルは黙って治癒を続けながら、核心の方角を見つめていた。
あの方は全部、背負おうとしている。
世界の魔力を全て繋ぎ直すという、途方もない重荷を。一人で。目を閉じて。誰にも気づかれないまま。
ミラベルの目に、また涙が滲んだ。
ヴァルゼン様は弱い。
パーティに入った頃から、ミラベルにはなんとなくわかっていた。あの方の怯えは演技ではない。震えは本物だ。攻撃魔法が暴発するのも、剣を持てば腰が引けるのも──全部、本当のあの方だ。魔王という重荷の下で、本当に苦しんでいる。
でも──その弱さのまま、世界を救おうとしている。
弱いまま、立っている。弱いまま、繋いでいる。
「ヴァルゼン様……」
小さく呟いた声は、戦場の喧騒と負傷者の呻きにかき消された。
ミラベルは涙を袖で拭い、杖を握り直した。帽子を被り直し、次の担架を迎える準備をする。
「次の方、どうぞ! 大丈夫、治りますから!」
声は震えていたが、治癒の光はこれまでで最も強く輝いていた。
ヴァルゼンが世界を繋ぐなら、ミラベルはその恩恵で人を癒す。あの方が紡いだ魔力の流れを、この手の治癒に変える。
小さな循環が、ここにもあった。
再起動率──20パーセント。
世界は、少しずつ息を吹き返し始めていた。




