南の管制塔で、フェリクスは限界に近づいていた。
南の管制塔で、フェリクスは限界に近づいていた。
管制塔──と言っても、古い遺跡の塔を急遽改修した簡素な施設だ。壁面に刻まれた術式が青白い光を放ち、天井近くに浮かぶ半透明の制御盤が絶え間なくデータを吐き出している。魔力流量、接続率、各要所の負荷バランス、虚淵の侵食速度。膨大な数値の洪水がフェリクスの前を流れ、その全てを処理し続けなければならなかった。
右目のモノクルが魔力で熱を帯びている。使いすぎだ。レンズの端が微かに歪み始めている。しかし外すわけにはいかない。このモノクルなしでは、術式の構造が可視化できない。
「南西の接続率が低下。補助術式の出力を12パーセント引き上げ。北東の干渉波を検知──対消滅パターンBで相殺」
矢継ぎ早に指示を飛ばす。管制塔に詰めている十二名の術師たちが必死にフェリクスの命令を実行していく。彼らは王立魔術学院から選抜された精鋭だが、この規模の術式管理は全員にとって未知の領域だった。実質的に、フェリクスの頭脳だけが全体を統括している。
フェリクスの役目は明確だった。ヴァルゼンが魔力の糸を「繋ぐ」作業を、術式の側面から補助すること。ヴァルゼンが感覚で繋いだ糸を、フェリクスが理論で安定させる。二人三脚──いや、ヴァルゼンが走り、フェリクスが道を舗装する、というのが正確だろう。
データは嘘をつかない。
フェリクスは常にそう信じてきた。
六歳で王立魔術学院に入学して以来、二十六年間。あらゆる現象をデータに変換し、論理で解析し、結論を導く──それがフェリクスの生き方だった。
だが今、データが告げる内容に、フェリクスの知性が追いつかなくなっていた。
「……これは」
モノクルの表示に、フェリクスの手が止まった。
ヴァルゼンが繋いだ魔力の糸のデータ。接続の精度。タイミング。経路選択。
一本一本のデータを追っていたフェリクスは、十五本目あたりから異変に気づいていた。
精度が高すぎる。
魔力の糸は無数に存在し、その一本一本が微妙に異なる性質を持つ。太さ、流速、属性、振動周期、劣化度──それらを全て考慮して最適な接続経路を選ぶには、膨大な計算が必要だ。フェリクスのモノクルと演算術式を総動員しても、一本あたり数分はかかる。変数が多すぎるのだ。気温、湿度、虚淵の侵食速度の変動、さらには周囲の戦闘による魔力の揺らぎまで──全てが計算を複雑にする。
ヴァルゼンは、それを感覚でやっている。
しかもフェリクスの計算結果より正確に。
十本目までは「偶然」で片づけた。確率的にありえないが、偶然の連鎖ということもある。
十五本目で「偶然の域を超えている」と認めた。統計的有意差を示している。
二十本目を超えたとき、フェリクスは自分の手帳を開くことすら忘れていた。
「……僕の分析力を、超えている」
声に出したのは無意識だった。
隣の術師が驚いてこちらを見たが、フェリクスはそれに気づかなかった。
魔王殿の魔力感知は──本物だ。
いや、「本物」という言葉では足りない。規格外だ。計算で到達できる精度を、感覚が超えている。理論が追いつかない。
フェリクスはこれまで、ヴァルゼンの行動の全てに「深謀遠慮」という解釈を当てはめてきた。あの方は全てを計算している。完璧な偽装の裏に、完璧な戦略がある。モノクルで読み取れるデータが少なすぎるのは、高度な隠蔽術を使っているから。
その分析に基づいて、フェリクスは動いてきた。
だが今、目の前のデータが告げている真実は、もっと単純で──もっと恐ろしいものだった。
ヴァルゼンは計算などしていない。
計算を超えたところで、世界を「感じて」いる。
フェリクスの分析手法──データを集め、論理で組み立て、結論を導く──では到達できない領域がそこにあった。どれだけ計算を精緻にしても、「感じる」には勝てない。理論の外に、理論を超えた正確さがある。
戦闘力は最底辺。知略も深謀遠慮もない。
しかし魔力感知の精度だけが、異常なまでに──いや、世界で唯一無二のレベルで高い。
あの方は……本当に、戦闘力以外の全てが規格外だったのか。
いや、違う。
戦闘力以外の「全て」ではない。魔力感知という一点だけが突出している。他の能力は平凡どころか最底辺だ。攻撃魔法は暴発する。火を熾す魔法すら失敗する。
にもかかわらず、その一点だけで──世界を救おうとしている。
フェリクスの指が震えた。
手帳を開こうとして──やめた。
今は分析している場合ではない。
データを集めて解釈する時間があるなら、一本でも多く術式の補助をすべきだ。
フェリクスは生まれて初めて、手帳を閉じたまま判断を下した。
「全術式の最適化を中断。魔王殿の接続パターンに同期する形で、補助出力を再配分する」
「し、しかしフェリクス様、最適化なしでは術式のバランスが──」
「僕の最適化より、魔王殿の感覚の方が正確だ。データがそう言っている」
術師たちが目を丸くしている。万象の解剖者と呼ばれた分析家が、分析を手放した瞬間だった。
フェリクスは苦笑した。
知性の限界を認めることは、恥ではない。認めた上で、自分にできる最善を尽くすことが──知性の本分だ。二十六年間の研究が教えてくれた最後の教訓が、まさかこれとは。
「魔王殿の感覚を信じる。僕は全力で補助に回る。それが今の最適解だ」
モノクルの表示が切り替わる。分析モードから補助モードへ。
データを読み取ることをやめ、ヴァルゼンの動きに合わせて術式を調整し始める。ヴァルゼンが次にどの糸を繋ぐか──それを予測するのではなく、繋いだ瞬間に最速で安定化させる。後追いの支援。
フェリクスの分析は、常にヴァルゼンの一歩後ろを追いかけていた。
ならば今は──追いかけるのではなく、支えよう。
二十五本目の糸が繋がった。
フェリクスの補助が入ったことで、接続が以前より安定している。虚淵の侵食に対する耐久性が上がり、繋いだ先から切れる悪循環が緩和されつつあった。
管制塔のデータが示していた。ヴァルゼンの接続速度が、目に見えて向上している。
一人ではできないことが、二人ならできる。
フェリクスの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
それはいつもの皮肉な笑みではなかった。穏やかで、どこか晴れやかな──分析を手放した知性が見せる、初めての表情だった。
手帳は、閉じたままだった。
分析は後だ。
今は──信じる。
再起動率──15パーセント。
まだ遠い。だが確実に、進んでいる。




