世界が、震えていた。
世界が、震えていた。
空を覆う虚淵は大陸の三分の一を黒く塗りつぶし、そこから溢れ出す歪みの怪物たちが、各要所に同時に襲いかかっていた。
最終決戦──と呼ぶには、あまりにも混沌としていた。
北の要所では、エルヴィンが聖剣を振るっていた。
金色の刃が弧を描くたびに歪みの怪物が消滅する。しかし一体倒しても二体が湧く。三体倒せば五体が現れる。際限がなかった。
怪物の体は漆黒の靄のようで、斬っても斬っても形を変えて蘇る。虚淵が存在する限り、湧き続ける。底なしの沼に立ち向かっているようなものだった。
「くそ……キリがないな!」
エルヴィンの額に汗が浮かんでいたが、碧い瞳に怯みはない。聖剣の刃が白金に輝くたび、周囲の闇が退く。彼は振り返りもせずに叫んだ。
「グリゼルダ! 東の防衛線は!?」
「問題ない! 三度突破されたが、三度押し返した!」
遠方からグリゼルダの声が轟いた。銀髪を振り乱し、大剣で歪みの怪物を叩き斬りながら、彼女は防衛線の最前列に立ち続けていた。鎧の各所に傷がつき、左肩の甲冑が半壊しているが、その足は微動だにしない。蒼灰色の瞳が戦場を見渡し、指揮官としての冷静さを保っている。
「フェリクスの術式は順調か!」
「南の管制塔から異常なしの信号が上がっている! ミラベルの治癒結界も展開済みだ!」
戦場は凄まじい勢いで動いていた。
各要所に展開した全種族の連合軍が、虚淵から溢れ出す歪みの怪物と死闘を繰り広げている。人間の騎士が剣を振り、魔族の兵士が魔法を放ち、精霊たちが風と炎の壁を築く。鉄と魔力がぶつかる音が大地を震わせ、悲鳴と雄叫びが入り交じる。
全てが、ヴァルゼンのために。
全てが、魔力循環の再起動のために。
その中心で──ヴァルゼンは、目を閉じていた。
核心と呼ばれる大地の中央。魔力循環の最も太い流れが交差する場所に描かれた巨大な魔法陣。フェリクスが三日三晩かけて組み上げた術式が淡い青白い光を放ち、円環の模様が地面に浮かんでいる。
その中央に立ち、両手を静かに下ろし、ヴァルゼンは微動だにしなかった。
目を閉じている。
呼吸すらも感じられないほど、静かに。灰がかった銀色の髪が風に揺れる以外、生きている徴すら見えない。
外から見れば、何もしていない。
戦場が燃え、仲間が血を流し、世界が消えかけているというのに──魔王は中央で、ただ立っている。
「……何やってんだ、あの魔王」
後方で輸送を担当していた人間の兵士がぼそりと漏らした。物資の木箱を担いだまま、核心の方角を不審そうに見つめている。
「馬鹿言うな」
隣の魔族の兵士が即座に否定した。尖った耳を揺らし、琥珀色の目を細めている。
「あれは我が王だ。あの方が何もしていないように見えるなら、お前の目が節穴なんだよ」
「じゃあ何してんだよ」
「知らん。だが何もしていないわけがない」
根拠のない断言だった。しかし魔族の兵士の声には揺るぎない確信があった。彼はヴァルゼンの下で魔王軍再編に参加した一兵卒であり、あの弱そうな魔王に何度も予想外の結果を見せられてきた経験が、盲目的とも言える信頼の土台だった。
もう少し離れた丘の上では、観戦に来た群衆が同じ議論を繰り広げていた。商人、旅人、近隣の村から避難してきた住民。戦場に立つ勇気はないが、世界の命運を見届けたいという好奇心が彼らをここに留めている。
「あの余裕を見ろ。戦場のど真ん中で瞑想だぞ。完全に超越している」
「いや、あれは何もしていないのでは……」
「何もしていないように見せるのが、最も高度な戦術なのだ。知らんのか」
「知らん。何の話だ」
「古の兵法書に書いてある。『至上の将は形なし』──つまり、形のある戦い方をしている時点で二流なのだ。あの魔王の戦い方には形がない。だから最強なのだ」
「よくわからんが、すごいのか?」
「すごい」
壮大に的外れだった。
誰も正解に辿り着いていなかった。
ヴァルゼンは戦術的瞑想をしているのでも、余裕を見せているのでもない。
彼は──必死だった。
目を閉じたヴァルゼンの意識は、すでにこの場にはなかった。
肉体の感覚が遠退き、代わりに世界全体の魔力の流れが、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
無数の光の筋。
大地を走り、空を渡り、海を横切る魔力の脈動。かつては世界中を巡り、全ての生命を育み、全ての魔法を支えていたそれらが、今は至るところで寸断され、枯れ、消えかけていた。
虚淵に食い荒らされた魔力循環の残骸。
それを──繋ぎ直す。
ヴァルゼンの魔力感知が、全力で世界を捉えていた。
魔王の血統が持つ唯一の力。攻撃にも防御にも使えない。戦闘には一切役立たない。ただ「感じる」だけの力。
それが今、世界の全てを掌握しようとしていた。
怖い。
こんなことが自分にできるのか、わからない。ゴブリン以下の戦闘力しかない自分が、世界規模の魔力循環を繋ぎ直すなんて。冗談にしても質が悪すぎる。
でも──やるしかなかった。他に誰もいないのだから。
額に汗が浮かんだ。
それは暑さのせいではない。ヴァルゼンの全神経が、意識の限界まで集中していた。こめかみがずきずきと痛む。脳の奥が焼けるような感覚がある。
外からは、汗一つかかずに立っているように見えた。
実際にはとっくに汗だくだったのだが、風が吹いて乾いてしまっていただけである。体温が高いのか低いのかすら、もう自分ではわからない。
丘の上の群衆がまた囁く。
「汗一つかいていない。……あれが、最凶の魔王か」
「無の境地に達しているのだ」
達していない。
ヴァルゼンの内心では「死ぬ死ぬ死ぬ! 集中切れたら全部終わる! なんで僕がこんなこと! 助けて! 誰か代わって! 無理!」と悲鳴が上がりっぱなしだった。
しかし──その悲鳴の奥底で、魔力の流れが脈打ち始めていた。
ほんの微かに。
世界のどこかで、途切れた糸が一本、揺れている。
ヴァルゼンはその糸に意識を伸ばした。震える手で──いや、意識の中に手はない。ただ「感じる」ことで、糸の端を探る。
届くか。届かないか。
指先が──意識の指先が、震えながら伸びる。北の方角。エルヴィンが戦っている場所の近くにある、魔力の主幹線の断裂点。
触れた。
世界の魔力が、ヴァルゼンの中で脈を打った。
心臓に直接手を突っ込まれたような衝撃だった。全身が震え、膝が笑い──しかし倒れなかった。歯を食いしばり、意識を保った。
それはまだ一本の、細い糸に過ぎなかった。
だが、始まった。
魔力循環の再起動が──始まった。




