その朝は、空が割れることから始まった。
その朝は、空が割れることから始まった。
夜明け直前。東の空が白み始めた、まさにその瞬間——世界の南東方面で、巨大な裂け目が天を引き裂いた。
裂け目からは、光のない闇が溢れ出していた。黒でもない。暗闇でもない。「何もない」という概念そのものが形を持ったような、存在の否定としての闇。
虚淵だった。
虚淵が——最大拡大した。
「全軍起床! 緊急事態!」
グリゼルダの怒号が集結地に響き渡った。銀狼の異名は伊達ではない。その声は広大な陣営の隅々まで届いた。
兵士たちが跳ね起き、武器を掴み、持ち場に走る。焚火の残り火が踏み消され、鎧の金属音と怒号が交錯する。整然としたはずの陣営が一瞬で戦場の空気に塗り替えられた。馬が嘶き、伝令が走り、指揮官たちの怒声が重なり合う。
ヴァルゼンは天幕から飛び出して、空を見上げた。
息が止まった。
空が——裂けていた。
昨夜、星を見上げた空が。ミラベルと二人で眺めた空が。流れ星を見送った空が。
その空の三分の一が、黒い亀裂に呑み込まれていた。
裂け目から流れ出す闇は、大地にも及んでいた。遠方の山脈が——消えていた。地平線の一角がごっそりと抉り取られ、そこには何もなかった。山も森も大地もない。ただの虚無。世界がそこだけ切り取られたかのように、何もない空間が広がっている。
魔力の流れが逆流している。全身の感知能力が悲鳴を上げていた。世界の魔力循環が乱れ、あらゆる方向から不協和音のような魔力が押し寄せてくる。頭が痛い。気持ち悪い。世界そのものが病んでいる——その苦しみが、ヴァルゼンの身体に流れ込んできていた。
昨日まで感じていた八つの要所の脈動が、ぐちゃぐちゃに掻き乱されている。整然としていた魔力の流れが濁流と化し、ヴァルゼンの感知を押し潰そうとしていた。
「大陸の三分の一が消滅の危機に瀕しています」
フェリクスが蒼白な顔で地図を広げた。モノクルの解析機能が限界を超えた数値を弾き出している。レンズの端が明滅し、処理が追いついていない。
「虚淵の侵食速度が昨日の四倍以上。このペースでは——三日以内に大陸の半分が呑まれる。一週間で大陸全土。二週間で——世界が終わります」
三日。
たった三日。
周囲にパニックが広がっていた。兵士たちの表情に恐怖が浮かび、悲鳴が上がり、逃げ出そうとする者すら現れた。せっかく集結した戦力が、恐怖で瓦解しかけていた。
グリゼルダが大剣を抜き、逃走しようとした兵士の前に立ちはだかった。
「持ち場を離れるな! 恐怖は当然だ。だが逃げても虚淵からは逃れられない! 立て! まだ戦いは始まっていない!」
銀狼の一喝に兵士たちが足を止める。だが表情は強張ったままだった。彼らの目は空の亀裂に釘付けになっている。あんなものに、人間が太刀打ちできるのか。誰もがそう思っていた。
ヴァルゼンは——立ち尽くしていた。
足が動かなかった。
目の前の光景が、あまりにも圧倒的だった。空が裂け、大地が消え、世界が崩壊していく。その規模の前に、自分がどれほど小さな存在か、嫌というほど思い知らされた。
(無理だ。こんなの——こんなの、僕にどうしろって言うんだ。空が裂けてるんだぞ。大地が消えてるんだぞ。僕は昨日十二回転んで三回溝に落ちてた男だぞ。こんな規模の災厄に、何ができるっていうんだ)
フェリクスが蒼白な顔のまま、それでも必死に数値を計算していた。ザガンが魔族の部隊に通信を飛ばし、ミラベルが治癒師団との連絡を取っている。みんな動いている。恐怖に立ちすくんでいるのは——自分だけだった。
膝が震えていた。手も震えていた。声も出なかった。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが隣に立っていた。聖剣を背負い、金髪が朝の風に揺れている。碧い瞳は——不思議なほど穏やかだった。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃ、ないです」
正直に答えた。嘘をつく余裕すらなかった。
「見ての通りです。空が裂けてます。大地が消えてます。僕は——」
声が途切れた。
エルヴィンは黙って待っていた。急かさず、励まさず、ただ——隣にいてくれていた。
ヴァルゼンは唇を噛んだ。
怖い。怖い怖い怖い。逃げたい。こんな場所から今すぐ逃げ出したい。
でも——昨夜、約束した。「必ず」と。
誰に? ミラベルに。仲間に。辺境の村から歩いてきた老人に。世界中から集まってくれた人々に。
逃げたら——この人たちを裏切ることになる。
ヴァルゼンは震える足に力を込めた。
「……行きましょう」
声は震えていた。膝も震えていた。
だが——足は、前に出ていた。
エルヴィンが目を見開いた。そして——にやりと笑った。
「ああ。行こう」
ヴァルゼンが一歩を踏み出した瞬間、周囲の空気が変わった。
パニックに陥っていた兵士たちが、ヴァルゼンの姿を見た。震えながら、しかし前に進む小さな魔王の姿を。
「……魔王が動いた」
「魔王様が、前に出るぞ」
「あの方が動くなら——俺たちも」
恐怖が消えたわけではない。空の亀裂は広がり続け、世界の崩壊は止まっていない。
だが——一人の小さな魔王が、震えながら前に歩いた。
それだけで、数千の兵が動き始めた。
一人が動けば、隣の一人も動く。隣が動けば、その隣も。波のように。焚火の火が風に乗って広がるように。恐怖を残したまま、それでも——足が前に出る。
全軍が動き始めた。
フェリクスが小さく呟いた。
「恐怖すら踏み越える——最凶の意志か」
(意志じゃないです。約束を守りたいだけです。それだけなんです。格好いい理由なんか何もない。ただ——昨夜、星の下で「必ず」って言ったから)
ヴァルゼンの一言で、世界が動いた。
——少なくとも、歴史にはそう記されることになる。実際には震える声で「行きましょう」と呟いただけなのだが、後世の記録では「魔王は崩壊する天を見上げ、不敵に笑い、『行くぞ』と全軍に号令した」ということになっている。
いつものことだった。




