決戦前夜の夜は、静かだった。
決戦前夜の夜は、静かだった。
集結地には数千の兵が展開していた。焚火が至る所で揺れ、小さな光の点が暗闘に散らばっている。夜空には星が瞬き、風は穏やかだった。虚淵の亀裂が地平線の彼方に暗い筋を走らせているが、今夜ばかりはそれも遠い出来事のように感じられた。
明日、世界の命運が決まる。
その重さを、全員が感じていた。だからこそ、声は小さく、動きはゆるやかで、夜は驚くほど静かだった。兵士たちはそれぞれの焚火を囲み、故郷の話をし、家族の名前を呟いていた。
ヴァルゼンは集結地の外れ、小高い丘の上にいた。
膝を抱え、夜空を見上げていた。
星が綺麗だった。虚淵がなければ——いや、虚淵があるからこそ、この夜空がどれほど貴重なものか、身に沁みた。明日、この空が残っているかどうかすら、わからない。
明日。全てが始まる。
自分が「繋ぐ」。全要所の魔力を自分の身体を通して接続し、世界の魔力循環を再起動する。
失敗したら——世界が終わる。
成功する保証は、どこにもなかった。今日の訓練では八箇所を感知できるようになったが、本番は模擬ではない。虚淵の侵食の中で、実際の魔力を、実際に繋ぐ。訓練と本番の差を埋められるかどうか。
手が震えていた。寒さではない。恐怖だ。純粋な、混じりけのない恐怖。
「……怖いな」
独り言のつもりだった。
「怖いですか?」
隣に、いつの間にかミラベルが座っていた。
僧衣の裾を丁寧に畳み、つば広の帽子を膝の上に置いて、同じように夜空を見上げている。亜麻色の髪が夜風に揺れ、星明かりが翡翠色の瞳にちいさな光点を映していた。
「み、ミラベルさん。いつから——」
「少し前から。一人でいらしたので、気になって。お邪魔でしたか?」
「いえ。全然。むしろ——」
ヴァルゼンは言葉を探した。嬉しい、と言うのは少し違う。安心する、が近い。この人がいると、胸の奥の冷たいものが少しだけ溶ける。
「……一人じゃなくて、よかったです」
ミラベルが小さく微笑んだ。
「怖いですか?」
もう一度、同じ問いかけだった。今度は答えを待つように、静かに。
ヴァルゼンは正直に答えた。
「はい、めちゃくちゃ怖いです」
飾りのない言葉だった。いつもの「弱さの告白」ではなく、ただの——本音だった。
「明日、全部うまくいく保証なんてどこにもなくて。僕の力が足りなかったらどうしよう、みんなを巻き込んでしまったらどうしよう、って考えると——もう、怖くて怖くて。今日だって十二回転んだし、木にぶつかったし、溝に落ちたし」
少しだけ自嘲が混じった。
「こんな僕が、世界を救う核心を担うなんて——冗談にしても出来が悪いですよね」
ミラベルは黙って聞いていた。泣いてはいなかった。いつもなら涙ぐむミラベルが、今夜は泣かずに聞いていた。
やがて——小さく息を吐いた。
「……私も怖いです」
ヴァルゼンが顔を向けた。
ミラベルの翡翠色の瞳が、星明かりに揺れていた。
「私も、明日が怖い。仲間が傷つくかもしれない。私の回復が間に合わないかもしれない。大切な人を——失うかもしれない」
声が、ほんの少し震えた。「大切な人」という言葉に、特別な重みがあったように聞こえた。
「でも」
ミラベルがヴァルゼンを見た。
「あなたが怖いと言ってくれるから、私も正直に怖いと言えます」
ヴァルゼンは目を瞬いた。
「僕が……怖いと言うことが?」
「はい。強い人に『大丈夫だ』と言われても、安心はするけれど、自分の弱さが余計に際立つだけです。ああ、この人は怖くないんだ、怖がっている私は弱いんだ、って。でも——あなたが怖いと言ってくれると、『ああ、怖くていいんだ』と思えるんです」
ミラベルの声は穏やかだった。いつもの涙混じりではなく、静かな、芯のある声だった。
「ヴァルゼン様の弱さは——誰かを楽にする弱さです。あなたが弱くいてくれるから、みんなが素直になれる。怖いと言える。助けてほしいと言える。肩の力を抜ける」
ヴァルゼンは言葉を失っていた。
自分の弱さが、誰かの支えになっている。
そんなこと——考えたこともなかった。弱さは恥だと思っていた。隠すべきものだと。バレたら終わりだと。
「……僕は」
「はい」
「僕は、強くなりたいと思ったことが何度もあります。エルヴィンさんみたいに。グリゼルダさんみたいに。でも——」
「でも?」
「今のままの僕で——もし、誰かの役に立てるなら」
言葉が続かなかった。
ミラベルが微笑んだ。今夜一番の、柔らかな微笑みだった。
「立てていますよ。ずっと」
しばらく、二人は黙って夜空を見上げていた。
風が髪を揺らす。焚火の匂いが漂ってくる。遠くで、兵士たちのささやき声が聞こえる。
この場面だけは——誤解がなかった。
ミラベルはヴァルゼンの「弱さ」を「弱さ」として見ていた。それを「隠された強さ」だとか「計算された謙虚さ」だとか、そういうフィルターを通さずに——ただの「弱さ」として受け止めていた。
そしてその弱さを、否定せず、矯正しようとせず、ただ——隣にいてくれていた。
「……明日、必ず」
ミラベルが言いかけて、止まった。
何を言おうとしたのか。帰ってきてください。無事でいてください。生きていてください。
どの言葉も重すぎて、口にできなかった。
ヴァルゼンが、静かに答えた。
「はい。必ず」
何を約束したのか、自分でもよくわからなかった。でも——約束しなければならないと思った。
星が一つ、流れた。
二人はそれを黙って見送った。




