リハーサルは、端的に言えば惨憺《さんたん》たるものだった。
リハーサルは、端的に言えば惨憺たるものだった。
集結地の外れに設けられた訓練場。フェリクスが仮設の魔力感知器を設置し、ヴァルゼンが全要所の状態を同時に把握する訓練が始まった。地面には術式の紋様が描かれ、八箇所の要所を模した魔力源が配置されている。
「では魔王殿。まず三箇所から始めます。東の要所、西の要所、南の要所——それぞれの魔力の流れを同時に感じ取ってください」
「わかりました」
ヴァルゼンが目を閉じた。
魔力感知。それはヴァルゼンが持つ数少ない——そして唯一本物の力だった。他の魔族が戦闘に使う魔力を、ヴァルゼンは「感じる」ことに使う。世界の魔力の流れが、閉じた瞼の裏に光の線として浮かび上がる。微かな光だが、確かに見える。
東。温かく脈打つ魔力。心臓の鼓動に似たリズム。
西。冷たく澄んだ魔力。深い湖の底のような静けさ。
南。激しく渦を巻く魔力。嵐のような力強さ。
三つの流れが同時に意識に入り込んでくる。
「いい感じです。三つとも感じ取れます」
「では六箇所に増やします」
北。精霊の森に近い、緑がかった穏やかな魔力。五番目。大地の奥底から湧き上がる重い魔力。六番目。空高くに浮かぶ、軽やかな魔力。
「六つ……大丈夫、です……多いけど……頭がちょっとぼんやりしてきた……」
「では九箇所」
「え、もう? もう少し慣らしてから——」
「本番は八箇所同時です。段階的に増やさなければ間に合いません」
七、八、九。
ヴァルゼンの意識が魔力の海に沈んでいく。世界の至る所から流れ込む感覚が脳を埋め尽くし、自分が今どこに立っているのかが曖昧になっていった。足の裏の感覚が遠のく。風の音が消える。自分の身体が、魔力の流れの中に溶けていくような——
足元の石に気づかなかった。
つまずいた。
盛大に転んだ。
「わっ——!」
地面に顔から突っ込んだ。砂利が頬に食い込む。鼻をしたたかにぶつけ、目に涙が滲んだ。
「大丈夫ですか!」ミラベルが駆け寄り、すぐに治癒の光を当てた。
「だ、大丈夫です……すみません……鼻が……」
立ち上がって、再開した。
再び目を閉じ、九箇所の魔力を感知する。集中を深める。世界が広がっていく。意識が身体を離れ、魔力の流れに乗って遠くへ——
木にぶつかった。
「いたっ」
額を押さえて後ろによろめく。訓練場の端に生えている大木の幹に、正面からぶつかった。
「ヴァルゼン様!」ミラベルが再び駆け寄る。
「大丈夫です……木があるの、忘れてました……というか、感知中は本当に周りが見えなくなるんですね……」
グリゼルダが、その光景を腕を組んで見つめていた。転んで、立ち上がって、また集中して、またぶつかる。繰り返し。何度でも。
「……修行中の姿を見せるとは。我々を信頼してくださっている」
グリゼルダの蒼灰色の瞳が、微かに潤んでいた。武人は完璧な姿を見せるのが美徳とされる。修行中の不格好な姿を見せるのは、相手を完全に信頼している証だ——少なくとも、グリゼルダの流儀ではそうだった。
(信頼とか関係ないです。足元が見えないだけです。集中すると周りが全部消えるんです。見せたくて見せてるわけじゃないです)
三度目。今度は十箇所に挑戦した。
世界の魔力が波のように押し寄せてくる。意識が広がり、自分の身体の輪郭が溶けていくような感覚。これは——すごい。こんなに広い世界が、一つの流れで繋がっている。東の山脈と西の海が、同じ魔力の脈動で呼吸している。南の森と北の荒野が、地下深くで手を繋いでいる——
溝に落ちた。
「ぎゃっ」
訓練場の端にある排水溝に、頭から落下した。足だけが溝の縁から突き出ている。みっともない格好だった。
「ヴァルゼン様!!」
ミラベルが悲鳴を上げ、エルヴィンが溝からヴァルゼンを引っ張り上げた。勇者の膂力で、ヴァルゼンの身体が軽々と持ち上がった。
「お前、大丈夫か? 怪我は?」
「大丈夫です……足元が全然見えなくて……すみません、溝があるの知ってたんですけど、感知に集中してたら完全に忘れて……」
フェリクスが手帳に猛烈な速度で書き込みながら呟いた。
「興味深い。魔力感知に全意識を注ぐと、五感の優先度が極端に下がるのか。つまり魔王殿の感知能力は、身体の制御機能を犠牲にするほどの深度に達している。これは通常の感知能力とは次元が違う。記録に値する」
(記録しないで。お願いだから。転んだ回数を記録しないで。後世に残さないで)
リハーサルは夕方まで続いた。
ヴァルゼンは合計で十二回転び、五回木にぶつかり、三回溝に落ち、一回は味方の兵士の上に倒れ込んだ。兵士は「魔王に体当たりされた」として一生の自慢話にするだろう。別の兵士はヴァルゼンが転んだ場所の石を「聖石」と呼んで持ち帰ろうとした。やめてほしい。
だが——夕方には、八箇所すべての魔力を同時に感知できるようになっていた。
転びながらも、ぶつかりながらも、最後までやり遂げた。不格好で、みっともなくて、到底英雄的とは言えない訓練だったが——結果は出した。
何度転んでも立ち上がるヴァルゼンを、ミラベルは最初から最後まで見守っていた。
治癒の光を何度もかけ、砂利で切れた頬を癒し、打った額を冷やし、溝に落ちた時は泥だらけのローブを払ってやった。
そして最後に——小さく微笑んだ。
「あの方は……いつもそうだ」
弱い。不器用。ドジで、臆病で、何度も転ぶ。
でも——何度でも、立ち上がる。
それが、ミラベルが知っているヴァルゼンという人だった。




