セラフィオンが最後の報告を持ってきたのは、その日の夕方だった。
セラフィオンが最後の報告を持ってきたのは、その日の夕方だった。
集結地の外れにある天幕。パーティの主要メンバーが集まる中、夕日が布越しに赤い光を落としている。外では兵士たちの訓練の声が遠くに聞こえていた。
「神々は力を貸す」
セラフィオンの声は淡々としていた。半透明の翼が微かに明滅し、金色の瞳の幾何学紋様が静かに回転している。
だが——いつもと、何かが違った。いつもの超然とした冷たさの奥に、微かな温度があった。
「ただし、条件がある」
ヴァルゼンの背筋に冷たいものが走った。条件。また条件だ。全種族会議でも条件だった。神々まで条件を出してくるのか。
「再起動の成否は、魔王の器に懸かっている」
「器……」
ヴァルゼンは思わず自分の両手を見下ろした。小さな手だった。剣を振れば腰が引ける手。魔法を放てば暴発する手。ペンを持てばまあまあ字は書けるが、戦闘に関しては何の役にも立たない手。
「大きくないですよ、僕。器って言われても、せいぜいお猪口くらいのもので……」
正直な感想だった。
器の大きさと言われても、自分は世界一小さな魔王だ。角も小指の先ほどしかないし、魔力は一般的な魔族の十分の一もない。身長だってパーティで一番低い。器が大きいわけがない。
するとセラフィオンが——笑った。
初めて。
パーティの誰も見たことのない表情だった。金色の瞳の幾何学紋様がゆっくりと回転を速め、半透明の翼が微かに明滅した。陶器のように滑らかな顔に浮かんだそれは、ほんのわずかな——しかし確かな微笑みだった。
天幕の中に、一瞬の沈黙が落ちた。
エルヴィンが目を見開いている。グリゼルダが息を呑んでいる。フェリクスのモノクルが曇った。ミラベルの目から反射的に涙が溢れ、ザガンの尾が微かに震えた。
「器の大きさではない」
セラフィオンの声が、いつもの超然とした調子から、わずかに人間に近い温度を帯びた。世界創生期から存在する神使の声に、初めて「感情」と呼べるものが滲んでいた。
「どれだけ多くの力を繋げるかだ」
ヴァルゼンは言葉の意味を噛み砕こうとした。
繋げる。力を、繋げる。
「汝の魔力は、他のいかなる魔王とも異なる。破壊するものではない。支配するものでもない。先代魔王は破壊の魔力を極めた。先々代は支配の魔力を極めた。だが汝は——」
セラフィオンの瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを見据えていた。
「汝の魔力は——共鳴し、接続し、繋ぐものだ。それが汝の器だ。戦闘力の器ではない。接続の器だ。世界の魔力循環を繋ぎ直す——その資質を持つ者は、この世界に汝しかおらぬ」
ヴァルゼンは口を開きかけて、閉じた。
接続の器。自分の魔力が「繋ぐ」力に偏っている——そんなこと、考えたこともなかった。自分の魔力は弱い。それは疑いようのない事実だ。だが——弱いのではなく、種類が違う?
(僕の魔力は弱い。それは変わらない。でも——弱いんじゃなくて、種類が違う、ということなのか。破壊でも支配でもなく、接続。繋ぐ力。そんな魔力があるのか)
理解しきれなかった。だが、セラフィオンの言葉が嘘だとも思えなかった。嘘をつくような存在ではない。
「……よくわかりません。でも、やれることはやります」
ヴァルゼンのいつもの答えだった。大層な決意でも崇高な覚悟でもない。ただ、目の前のことを一つずつやる。それだけ。
セラフィオンの微笑みが——ほんの少しだけ、深くなった。
フェリクスがモノクルの曇りを拭きながら、震える声で呟いた。
「神使が笑った……。千年の観測記録にも前例のない事象だ。魔王殿。あなたはまた一つ、不可能を成し遂げましたね」
(笑わせたわけじゃないんだけど。ていうかセラフィオンさんって笑うんだ、という驚きの方が大きいんだけど)
グリゼルダが腕を組んで唸った。刀傷の走る頬に、深い感慨が浮かんでいた。
「神すら微笑ませるか。もはや畏怖を超えた敬意しかない」
ミラベルが目を潤ませていた。いつものことだったが、今回はいつにも増して涙ぐんでいた。帽子の下で翡翠色の瞳がきらきらと光っている。
「セラフィオン様が笑ったんです……。あの、感情を持たないとおっしゃっていたセラフィオン様が。ヴァルゼン様の前でだけ……っ」
(泣かないで。お願いだから泣かないで。僕まで泣きそうになるから。涙は伝染するんだから)
セラフィオンが天幕を出ようとした。
その足が止まった。
振り返り——ザガンに向けて、一言だけ言った。
「良い王に仕えたな」
ザガンが目を見開いた。
四百七十年を生き、三代の魔王に仕え、この世のあらゆることに動じなくなったはずの老参謀が——一瞬だけ、言葉を失った。琥珀色の瞳が揺れた。
そして——尾の先が揺れるのも構わず、深く頭を下げた。
「存じております」
その声は、四百七十年の全てを込めたような響きだった。
セラフィオンが去った後の天幕には、しばらく沈黙が漂っていた。余韻を壊すのが惜しいような、静かな時間だった。
エルヴィンが大きく息を吐いた。
「……すげえな。神の使いにあそこまで言わせるなんて。やっぱりお前は只者じゃねえ」
「言わせたつもりはないんですけど……」
「それがすげえんだよ、ヴァルゼン」
ヴァルゼンは小さく頭を振った。
だが——胸の奥に、何かが灯った気がした。接続の器。繋ぐ力。
自分にしかできないことがあるのかもしれない。
その予感だけが、静かに、しかし確かに、ヴァルゼンの中で息づき始めていた。




