それは、誰も予想していなかった出来事だった。
それは、誰も予想していなかった出来事だった。
作戦会議の三日目。各勢力の部隊配置を詰めている最中のことだった。地図の上に駒を並べ、フェリクスとザガンが兵力の最適配分を議論している。ヴァルゼンは隅で小さくなりながら二人のやり取りを聞いていた。
会議室の扉が、唐突に開かれた。
蹴り開けられた、と言った方が正確だったかもしれない。
分厚い樫の扉が壁にぶつかり、轟音が広間に響き渡った。蝶番が悲鳴を上げ、壁の漆喰が剥がれ落ちた。護衛の兵たちが一斉に武器に手をかけ、グリゼルダが反射的に大剣を抜きかけた。エルヴィンが聖剣の柄に手を伸ばしている。
扉の向こうに立っていたのは——ベリオスだった。
かつて魔王軍の急進派を率い、ヴァルゼンを「偽魔王」と断じて反乱を起こした男。魔族の中でも屈指の武力を持つ将軍。赤い瞳が炎のように燃え、角は長く鋭く、全身から放たれる魔力の圧は並の魔族の数倍に達していた。
その背後に、完全武装の魔族の軍団が整列していた。百名以上。全員が実戦装備で、殺気すら漂わせている。
会議室の空気が凍りついた。
人間側の文官が青ざめ、騎士たちが剣を抜きかけた。魔族の長老が眉を顰め、精霊の代弁者ですら微かに身じろぎした。
「ベリオス殿……」ザガンが静かに一歩を踏み出した。尾の先が緊張で微かに震えている。
ベリオスは会議室を大股で横切った。護衛の兵が立ちはだかろうとしたが、グリゼルダが手で制した。この場で戦闘になれば全てが壊れる。
ベリオスはヴァルゼンの前に立った。
赤い瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを射抜いていた。
ヴァルゼンの心臓が跳ね上がった。
(ベリオスさん。なんで。なんでここに。この顔、この目。怖い。めちゃくちゃ怖い。まさか、また反乱——いや、ザガンさんが協力を頼んだって言ってたけど、あの時は「偽魔王のためではない」って——)
「偽魔王」
ベリオスの低い声が響いた。
会場が緊張に包まれた。人間の騎士が剣の柄を握りしめ、魔族の護衛が低く唸る。一触即発。
「……勘違いするなよ」
ベリオスが口を開いた。その声は、ヴァルゼンの記憶にある敵意に満ちた声とは——微かに、しかし確かに違っていた。怒りはある。だが、かつてのような殺意はない。
「偽魔王に従うのではない。この世界を守るために来たのだ」
一拍の間。
「……たまたま、貴様が先に立っていただけだ」
ベリオスの背後に並ぶ魔族の兵士たちが、驚きの表情を浮かべていた。
ベリオスの側近の一人が、隣の兵士に耳打ちした。
「……総大将が、あの魔王の前でだけ、あんな顔をする」
「どんな顔だ」
「……意地を張ってる子供みたいな顔だ。口ではああ言ってるが、目が全然違う」
聞こえていたらベリオスに殺されるような会話だった。
ヴァルゼンは——目の前の光景が信じられなかった。
ベリオス。あの、自分を「偽物」と呼び、力こそが魔王の証だと信じていたベリオスが。完全武装の軍団を率いて、協力しに来た。
「ベリオスさん……ありがとうございます」
声が震えた。感謝と驚きと、少しの——安堵がないまぜになった声だった。
「礼を言うな」
ベリオスが顔を背けた。
「虫唾が走る」
目を逸らしていた。明確に。耳の先が微かに赤くなっている——のは、燭台の光のせいだろうか。
エルヴィンが、大声で叫んだ。もちろん場の空気など一切読んでいない。
「やっぱりツンデレだ! 魔王の人徳で氷の心も溶けたんだな! 知ってたぞ俺は! 最初からいい奴だって!」
「誰がツンデレだ!!」
ベリオスが激怒した。赤い瞳が炎のように燃え上がり、魔力が爆発的に膨れ上がった。手近な椅子が魔力の衝撃で吹き飛び、窓ガラスが微かにひび割れた。
「黙れ勇者! 俺は世界を守りに来ただけだ! この偽魔王とは何の関係もない!」
「照れるなよベリオス。お前、最初に会った時から実はいい奴だって俺にはわかってたぞ」
「わかってない! 何一つわかってない! この能天気勇者が! 殺すぞ!」
「ほら、そうやってすぐ照れ隠しする」
「照れてない!!」
会議室が一気に騒然となった。
だが——不思議なことに、その騒ぎが場の空気を和ませていた。
人間の王レグルスが、口元を隠すように手を当てた。笑いを堪えているのだと、ヴァルゼンは気づいた。王として場の体面を保たねばならないのだろうが、肩が微かに震えている。
魔族の長老の一人が、小さく「ふっ」と息を漏らした。
精霊の代弁者が——初めて、わずかに口角を上げた。
ベリオスの軍団が加わったことで、戦力は大幅に増強された。かつての急進派は魔族の中でも精鋭揃いであり、その参戦は作戦の実行可能性を一段引き上げるものだった。
「ベリオス殿の部隊は、北方要所の防衛を担当していただけますか」
フェリクスが冷静に作戦図にベリオスの部隊を組み込んだ。混乱の中でも手帳への記録を怠らない男だった。
「……ふん。どこでもいい。俺たちの実力を見せてやる」
ベリオスが腕を組んだ。
その時——会場に初めて、拍手が起こった。
最初に手を叩いたのは、人間の王レグルスだった。続いて、魔族の長老が。精霊の代弁者が。神殿の神官たちが。
それは盛大な拍手ではなかった。静かな、しかし確かな賛同の拍手だった。かつての敵が味方になる。力を信じていた男が、力だけでは足りないと悟って自ら歩み寄る。それは——全種族の協力が本物であることの、何よりの証だった。
ベリオスは拍手を浴びながら、居心地悪そうに顔を背けていた。
ヴァルゼンは壇上で、小さく微笑んでいた。
(ベリオスさん。本当に——ありがとう)
心の中で、もう一度だけ礼を言った。




