ヴァルゼンの「弱さの告白」が落とした波紋は、会議の場を超えて、各代表の記憶の底にまで届いていた。
ヴァルゼンの「弱さの告白」が落とした波紋は、会議の場を超えて、各代表の記憶の底にまで届いていた。
休憩が宣言され、各勢力がそれぞれの控え室に戻った。円卓の上には飲みかけの水杯と、散乱した書類が残されていた。
人間の王レグルスは、控え室の窓辺に立って外を眺めていた。護衛の騎士が扉の前に控えているが、王は一人で考え込んでいた。窓の外では、各勢力の護衛たちが互いを警戒しながら中庭を行き来している。
「……あの魔王」
記憶が蘇る。
二年前のこと。人間と魔族の間で、国境の集落を巡る小さな紛争が起きかけた。原因は些細なものだった。人間側の農民が国境を越えて耕作地を広げ、魔族側がそれを侵略と見なした。双方の軍が睨み合い、一触即発の空気が漂う中——魔王ヴァルゼンが単身で人間側の陣営に現れた。
あの時のことを、レグルスは鮮明に覚えている。
護衛もなく、武器もなく、ただ一人で来た魔王。震えていた。明らかに怖がっていた。額の小さな角を前髪で隠そうとしながら、それでも人間の将軍の前に立った。
そして言ったのだ。「どうか戦わないでください」と。魔族の王が、人間に。
あの時は「常軌を逸した胆力」だと思った。恐怖すら演技だろうと。最凶の魔王が自ら敵陣に乗り込み、「戦うな」と告げる——それは威嚇だと解釈した。「俺が本気を出す前に引け」という暗黙の脅しだと。
だが、今日の告白を聞いて——もしかしたら、あの震えは本物だったのかもしれない。本当に怖くて、本当に一人で、本当に「お願いする」しかなくて。
それでも来たのだ。敵陣のど真ん中に。
「……大した男だ」
レグルスは小さく呟いた。本物の強さとは何かを、改めて考えさせられる相手だった。力で従わせるのではない強さ。頭を下げることで場を動かす強さ。それは——レグルス自身が王として幾度も求められ、しかし容易には実行できなかった種類の強さだった。
魔族の控え室では、長老の一人がザガンに詰め寄っていた。
「ザガンよ。あの魔王は本気で頭を下げたのか。演技ではないのか。我ら魔族を欺くための策ではないのか」
ザガンは穏やかに答えた。背筋を正したまま、しかし声は柔らかかった。
「四百七十年、三代の魔王に仕えてまいりました。先代も先々代も強大でした。戦場で無数の敵を屠り、魔族の栄光を高めた。しかし——頭を下げられる魔王は、あの方が初めてです」
「それが強さだと言うのか」
「少なくとも、私が命を賭けてお仕えするに足る器であると、そう申し上げています。ザガン・四百七十年の経験をもって、保証いたします」
長老たちは顔を見合わせた。ザガンという男の忠誠の重さは、魔族であれば誰もが知っている。先代魔王の右腕。大戦を裏から支えた知恵者。数百年の風雪に耐えた老参謀。その男が「命を賭ける」と言うのだ。
「……ふん。ザガンがそこまで言う王か」
別の長老が腕を組み直した。頑固な表情は変わらなかったが、目の奥に揺らぎが生じていた。小さな揺らぎだったが——それは、数百年の固定観念に入った亀裂でもあった。
精霊の代弁者は、控え室には戻らなかった。
中庭の古木の下に佇み、風に耳を傾けていた。
フードの奥の翡翠色の瞳が、じっと虚空を見つめている。木の葉がざわめき、風が枝を揺らす。精霊の代弁者にとって、それは言葉だった。自然の言葉。
この者は、魔力の流れを感じ取る力を持っていた。精霊とはそういう存在だ。世界の魔力の脈動を、人間が風を感じるように当たり前に感じ取る。
そして先ほど、ヴァルゼンが頭を下げた瞬間——代弁者は、不思議なものを感じ取っていた。
ヴァルゼンの魔力。
あれは戦闘の魔力ではなかった。破壊する力でも、支配する力でもなかった。
共鳴する力だった。
周囲の魔力の流れと溶け合い、調和し、繋がろうとする力。それは精霊たちが森で感じる自然の脈動と——よく似ていた。木が根を張り、水が流れ、風が吹くように、ただ自然に「在る」力。
「……森と同じ匂いがする」
代弁者が、誰にも聞こえない声で呟いた。
神殿の控え室では、三人の神官が珍しく意見を一致させていた。
「あの魔王の誠意は本物だ。神の目をもってしても、偽りは見出せなかった」
「同感だ。長年教義を学んできたが、あれほど純粋な誠意を見たのは初めてかもしれぬ」
「問題は、誠意だけで虚淵に勝てるのかということだが——」
三人目の神官が言葉を切った。そして、窓の外を見た。中庭で佇む精霊の代弁者の姿が見えた。
「……だが、あの魔王のために集まった者たちを見るがいい。勇者エルヴィン。女騎士グリゼルダ。賢者フェリクス。僧侶ミラベル。元参謀ザガン。神使セラフィオン。世界でも指折りの実力者たちが、あの男を信じている。力なき者のために力ある者が集う——それ自体が、一つの奇跡ではないか」
「人望だ」
「ああ。あれは——力ではなく、人望で世界を動かそうとする王だ」
休憩が終わった。
各代表が席に戻る。空気が変わっていることは、誰の目にも明らかだった。座り方が違う。目線が違う。声のトーンが違う。
精霊の代弁者が、初めて自分から口を開いた。壁際から一歩を踏み出し、円卓に近づいた。その動作だけで、会場にざわめきが走った。
「……我々も、協力しよう」
会場がざわめいた。最も消極的だった精霊が、最初に歩み寄ったのだ。
代弁者はフードの奥からヴァルゼンを見つめ、静かに言った。
「この者の魔力は、森と同じ匂いがする。自然を壊す者には従えぬが——自然と共鳴する者には、力を貸そう」
ヴァルゼンは目を瞬いた。
(森と同じ匂い……? 僕、最後にお風呂入ったの三日前だけど、大丈夫かな。いや、そういう意味じゃないよな。たぶん)
的外れな心配をしながらも、胸の奥にじわりと温かいものが広がった。
一つ、壁が崩れた。




