交渉は、案の定、難航した。
交渉は、案の定、難航した。
まず口火を切ったのは人間の王だった。
「魔族との共同作戦など、前例がない。大戦が終わってまだ数年だ。民の感情がそれを許すとは思えん。国境の村々では今も魔族への恐怖が根強い。協力を命じれば、民の信頼を失いかねない」
レグルスの声は冷静だったが、背後の文官たちは露骨に顔をしかめていた。一人が羽ペンで書類に何かを走り書きし、隣の文官に見せている。おそらく「反対」の二文字だろう。
すかさず魔族の長老が応じた。最古参の長老——角が大きく湾曲した老魔族が、低く響く声で言った。
「こちらも同じことだ。なぜ我々が、人間のために兵を出さねばならぬ。虚淵は人間の領土から広がったのではないか。人間の行いが世界を蝕んでいるとすれば、責任を負うべきは人間だ」
「虚淵の発生源は特定されていない。いい加減なことを言うな」レグルスの声に、初めて棘が混じった。
「事実を述べたまでだ。人間の乱開発が原因だという説もある。魔族の領土は自然と共にあったが、人間は大地を切り開き、魔力の流れを乱してきた」
「それは一方的な見方だ。魔族の軍事行動が大地を荒廃させた地域もある。大戦の責任は双方にある」
空気が急速に険悪になっていく。人間側の騎士が剣の柄を握る手に力を込め、魔族の護衛が低く唸った。
ヴァルゼンは壇上で、ただ聞いていた。
反論しようとは思わなかった。というよりも、この場の全員が正しいように思えたのだ。人間の王の懸念はもっともだし、魔族の長老の不満にも理がある。大戦の傷は深い。数年で癒えるものではない。
精霊の代弁者が、初めて口を開いた。壁際から動かないまま、淡々と言葉を落とした。
「滅びるなら、それは自然の流れだ。世界は生まれ、育ち、やがて朽ちる。木が枯れるように。川が干上がるように。それを食い止めようとすること自体が、傲慢ではないか」
会場がざわついた。神殿の神官たちが顔を見合わせる。
「神々の意志に反するのであれば——」
「いや、神々はまだ判断を下されていない——」
「だからこそ我々が独自に——」
神殿側の意見もまとまっていなかった。三人の高位神官がそれぞれ違うことを言い始め、収拾がつかなくなっていく。一人が「神々の秩序を守ることこそ使命」と主張すれば、もう一人が「地上のことは地上で解決すべき」と反論し、三人目が「まずは祈りを捧げるべきだ」と的外れなことを言い出した。
混沌だった。
四つの勢力が、四つの方向を向いて主張を繰り広げている。誰も譲らない。誰も歩み寄らない。
ヴァルゼンは壇上で、その全てを聞いていた。
人間の王の発言に頷いた。メモを取った。
魔族の長老の主張にも頷いた。メモを取った。
精霊の言葉にも、神殿の混乱した議論にも、一つ一つ頷き、書き留めていった。小さな手帳がみるみる文字で埋まっていく。
「なるほど……」
時折そう呟くだけで、反論は一切しなかった。
何を言えばいいかわからなかったのだ。全員が正しいのに、どうやって反論するのか。
フェリクスが隣のグリゼルダに耳打ちした。声を潜めているが、分析者の興奮が滲んでいた。
「見たまえ。魔王殿は全ての意見を聞いている。一つ残らず、だ。あの方は全ての主張を把握した上で、最適解を導き出すつもりだ。全勢力の利害を同時に俯瞰する——恐るべき交渉術だよ」
グリゼルダが深く頷いた。
「確かに。この混乱の中で、微動だにせず全てを受け止めている。あの胆力は並ではない。さすがだ」
(交渉術じゃないです。何て言えばいいかわからないから聞いてるだけです。微動だにしないんじゃなくて、動けないだけです。胆力じゃなくて硬直です)
だが——不思議なことが起きていた。
ヴァルゼンが黙って聞き続けるうちに、各代表の語気が少しずつ変わっていったのだ。
最初は相手勢力に向けて吐き出していた言葉が、いつしかヴァルゼンに向かって語られるようになっていた。対立する相手を糾弾していたはずの声が、いつの間にか訴えかける声に変わっている。
「——だからこそ、我々人間は保証を求めるのだ。魔王よ、わかるだろう」
「——この不満は、数百年に及ぶ人間との確執に根ざしておる。魔王殿、理解されたい」
レグルスも長老も、気づかぬうちにヴァルゼンに「わかってくれ」と訴えていた。
それは、聞いてもらえている、という感覚が生んだ変化だった。
対立する相手に罵声を浴びせるのと、黙って頷いてくれる誰かに胸の内を打ち明けるのとでは、言葉の温度が違う。ヴァルゼンは何一つ技巧を凝らしていなかった。ただ、全員の言葉が正しいと思ったから聞いていただけだった。
しかしそれは——この場にいる誰にもできないことだった。
王は魔族の言葉に耳を貸さない。魔族は人間の論理を認めない。精霊は他種族の営みに関心がない。神殿は内部の統一すらできていない。
全員の話を等しく聞ける者が、この会場にはヴァルゼンしかいなかった。
一時間が過ぎた。
議論は堂々巡りを続けていたが、空気は確かに変わっていた。怒号はなくなり、声は落ち着き、各代表は自分の主張を丁寧に述べるようになっていた。聞いてくれる人間がいると知れば、人は叫ぶ必要がなくなるのだ。
膠着状態だった。しかし、最初とは質が違う膠着だった。
ヴァルゼンが何かを言いかけた。
口を開き——そして、止まった。
言葉が見つからなかった。
全員の主張は理解できた。全員が正しい。だからこそ、何を言えばいいのかわからなかった。
メモ帳の余白には、びっしりと各勢力の意見が書き連ねてあった。その全てに丸がついていた。一つも否定できなかったのだ。
ヴァルゼンは口を閉じ、もう一度メモに目を落とした。
答えは、まだ見つからなかった。




