壇上に立った瞬間、ヴァルゼンは後悔した。
壇上に立った瞬間、ヴァルゼンは後悔した。
広間は想像以上に広かった。天井は吹き抜けで、高い窓から差し込む光が石畳の床に幾何学模様を描いている。壁面には各勢力の紋章が並び、中央の円卓を囲むように、四つの勢力がそれぞれの席についていた。
人間側。国王レグルスが玉座風の椅子に深く腰かけ、鋭い灰色の瞳でヴァルゼンを見据えていた。五十代半ばの威厳ある男で、白髪交じりの髪と深い皺が長年の治世を物語っている。その背後に文官と騎士が控えている。文官たちは羊皮紙と羽ペンを構え、騎士たちは腰の剣に手を添えていた。懐疑の色が隠しきれていない。
魔族側。長老三名が揃って腕を組んでいる。白髪の老魔族たちの表情は、頑固な岩のように動かない。数百年を生きた者特有の重厚さが、椅子に座っているだけで放たれていた。ザガンがその隣に控え、静かに目を伏せていた。
精霊側。一人だけだった。フードを深く被った細身の人物——精霊の代弁者と呼ばれる存在。翡翠の瞳だけが暗がりから覗いていたが、その表情は完全に無関心だった。世界が滅ぼうが知ったことではない、と言わんばかりの佇まい。椅子には座らず、壁際に立っている。
神殿側。三名の高位神官が並んでいたが、互いの間に微妙な距離があった。内部分裂を体現するかのような席順だった。白い法衣の装飾が微妙に異なり、それぞれの派閥を示している。
全員の視線が、壇上のヴァルゼンに集まっている。
(死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ。この圧。この威圧感。世界中の権力者が僕を見てる。なんで僕がこんなところに立ってるんだ。帰りたい。今すぐ帰りたい)
心臓が喉元まで跳ね上がっていた。膝が笑い、指先が冷たい。背中を冷や汗が伝い落ちていく。
隣のエルヴィンが、小声で囁いた。ただしエルヴィンの小声は一般人の普通の声量だった。
「見ろ、ヴァルゼン。お前の圧で会場が張り詰めてる。さすがだ」
(僕の圧じゃない。僕が怯えてるだけだ。張り詰めてるのは僕の神経だ)
深呼吸。一回。二回。三回目でやっと声が出た。
「えー……ほ、本日はお集まり……おあつまり……」
噛んだ。
初手で噛んだ。
会場に微かなざわめきが走った。ヴァルゼンの顔が赤くなる。耳まで熱くなるのがわかった。前髪で隠れているはずの小さな角が、恥ずかしさで微かに震えた。
「お忙しい中、おこしいただき……あ、お越しいただき、まことに……かん、感謝いたし——」
また噛みそうになった。唇を噛んで堪えた。言葉が喉の奥で渋滞している。
エルヴィンが隣で腕を組み、真剣な表情で各代表を見渡していた。そして声を張り上げた。
「……わかるか。言葉を一つ一つ選んでいるんだ。あの男は、この場の全員の立場を考慮した上で、最も適切な言葉を探している。この緊張感——只事ではないぞ」
エルヴィンの声は小声のつもりだったのだろうが、勇者の声量では完全に会場に響き渡っていた。
(言葉を選んでるんじゃなくて、言葉が出てこないだけだ! 緊張感じゃなくてパニックだ! そして小声で言ってくれ!)
魔族の長老が眉を顰めた。琥珀色の瞳がヴァルゼンを値踏みするように見つめている。
「……ふむ。確かに、あの魔王から凄まじい気配が漂っておるな。これほどの気配を発しながら、表面上は穏やかさを装うとは」
(気配じゃなくて冷や汗です。凄まじいのは緊張です。穏やかさを装ってるんじゃなくて固まってるだけです)
人間の王レグルスが目を細めた。顎に手を当て、ヴァルゼンを観察している。長年の治世で培われた人物鑑定眼が、ヴァルゼンの一挙一動を分析していた。
「噂に聞く『最凶の魔王』か。……なるほど。一言一言に、尋常ではない重みがある。軽々しく口にしない。それは——この場の意味を正しく理解しているからだろう」
(重みじゃなくて、言葉が出てこないだけです。軽々しく口にしないんじゃなくて、口が回らないだけです)
神殿の高位神官たちも身を乗り出していた。
「あの威圧……間近で感じると、噂以上ですな」
「しかし、攻撃的な気配ではない。むしろ——制御された力を感じる。これだけの力を内に秘めながら、一切の敵意を見せない」
(制御もしてない。力もない。敵意もない。ただ震えてるだけだ。何一つ秘めてない。むしろ全部ダダ漏れだ)
唯一、精霊の代弁者だけが無反応だった。フードの奥の翡翠色の瞳が、ただ静かにヴァルゼンを見つめている。何を考えているのか読み取れない。
ヴァルゼンは唾を飲み込んだ。
もう一度だけ、深呼吸した。そして、震える声で続けた。
「本日の議題は一つです。虚淵……世界を蝕む滅びの力に対して、全種族が力を合わせることはできないか。それを、皆さんと話し合いたいのです」
なんとか噛まずに言い切った。
それだけで精根尽き果てた気分だった。膝の裏に汗が溜まり、ローブの内側が背中に張りついている。
沈黙が広間を満たした。
各勢力の代表がそれぞれの表情でヴァルゼンを見つめている。懐疑。警戒。無関心。分裂。四つの感情が、四つの方向からヴァルゼンに突き刺さっていた。
前途は多難だった。これ以上ないほど多難だった。
だが——
「……本題に入れ、魔王」
人間の王レグルスが口を開いた。
その声に、敵意はなかった。
むしろ、そこにあったのは——興味だった。
ヴァルゼンは内心で安堵の息を漏らした。少なくとも、話を聞いてもらえる。それだけで十分だった。
地獄のような会議の、地獄のような幕開けだった。




