会議の前日は、戦場の前夜に似ていた。
会議の前日は、戦場の前夜に似ていた。
少なくとも、ヴァルゼンにとっては。実際の戦場を知るグリゼルダやエルヴィンに言わせれば「まるで違う」のだろうが、ヴァルゼンの胃の痛みは本物の戦争と大差なかった。
人間の王が提示した「条件」は、蓋を開けてみれば「会場を中立地帯にすること」という至極真っ当なものだった。ヴァルゼンは安堵のあまり椅子から崩れ落ちそうになったが、周囲には「条件の軽さに拍子抜けした王者の余裕」と映ったらしい。もう何も言うまい。
精霊の森からも、遅れて出席の回答が届いた。「自然の流れが、そう告げている」という不思議な一文が添えられていた。意味はよくわからなかったが、出席してくれるならありがたい。神殿勢力は内部の意見が割れているようだったが、最終的に「複数名の代表が参加する」という玉虫色の返答で落ち着いた。
全勢力が出席する。
つまり、もう逃げ場はなかった。
「さて、準備を詰めましょう」
フェリクスが分厚い資料の束をテーブルに広げた。どこからこれだけの情報を集めたのか、もはや聞くのも怖い。
「各勢力の主張と利害関係を整理しました。人間王国は領土保全と虚淵対策の費用分担を求めるでしょう。魔族側は自治権の確認と人間側からの不可侵を条件にするはず。精霊は環境への影響を懸念し、神殿は教義上の正当性を問うてくる」
図表が何枚も並べられた。矢印と数字が複雑に絡み合い、各勢力の力関係が可視化されている。色分けされた線が交差し、想定される論点が付箋で書き込まれている。
(フェリクスさん、すごいな……。これ全部一人で作ったのか。寝てないんじゃないか)
「魔王殿。この資料はあくまで補助です。交渉の本質は、あなたの言葉にある」
「え、僕の言葉? 僕、大勢の前だと噛むんですけど……」
「噛むことすら戦術になる方ですから、心配は無用です」
(ならないよ。噛むのは噛むだけだよ。戦術的に噛む人間なんかいないよ)
別の部屋では、ザガンが魔族側の根回しに動いていた。
「長老方。陛下の会議にご出席いただけることは、魔族にとって千年に一度の好機です」
通信の魔術越しに、長老たちの不満の声が漏れ聞こえてくる。「なぜ人間と同席せねばならぬ」「魔王が頭を下げるなど前代未聞」「我々の矜持はどうなる」——しかしザガンは一つ一つを丁寧に捌いていった。声を荒らげず、しかし譲らず。柔軟でありながら芯を曲げない。
四百七十年の経験は伊達ではない。
「そしてベリオス殿にも、ご協力をお願いしたく存じます」
通信の向こうで、沈黙が落ちた。長い沈黙だった。ベリオスという男の不器用さが、そのまま音になったような沈黙だった。やがて低い声が返ってきた。
「……俺に何をしろと言うのだ、老参謀」
「何も。ただ、会議の場に姿を見せていただくだけで結構です。元強硬派の筆頭が出席する——それだけで、魔族内の反対派は黙ります」
また長い沈黙が続いた。ザガンは辛抱強く待った。四百年以上生きた男には、沈黙を待つ忍耐力がある。
やがて、ベリオスは舌打ちした。
「偽魔王のためではない。世界が滅んでは俺の居場所もなくなるからだ」
「もちろんです。陛下もそのように理解されるでしょう」
ザガンは通信を切ると、かすかに口角を上げた。尾の先が、満足げに一度だけ揺れた。
一方、グリゼルダは会場となる広間の隅々まで自らの足で歩き、警備の配置を決めていた。歩幅で距離を測り、壁の厚さを拳で叩いて確認し、天井の梁にまで目を配っている。
「入り口は三箇所。ここと、ここと、ここだ。各門に精鋭を二名ずつ。窓は全て施錠。屋根上にも見張りを置く。死角はここと——ここ。追加の照明が必要だ」
「グリゼルダさん、そこまでしなくても……」
「ヴァルゼン様。各勢力の代表が一堂に会するのです。万が一にも不測の事態があってはならない。一つの刃が場を乱せば、全てが水泡に帰す」
(不測の事態って、僕が壇上で気絶することとか含まれますか。いや含まれないだろうな。僕が気絶する事態は想定されてないんだろうな。残念ながら本人的にはかなり現実的なシナリオなんだけど)
ミラベルはミラベルで、各勢力の使者から聞き取った情報を整理していた。小さな手帳にびっしりとメモが並んでいる。
「人間の王は慎重な性格ですが、虚淵への危機感は強いようです。交渉の余地は十分にあります。精霊側は……少し難しいかもしれません。自然の摂理に従う、という立場が根強いので」
「滅びるのも摂理だ、って言われたらどうしよう……」
「大丈夫ですよ。ヴァルゼン様の誠意は、きっと届きます」
ミラベルの翡翠色の瞳が、揺るぎない信頼を湛えていた。ヴァルゼンはその視線から逃げるように目を逸らした。誠意はある。それだけは本当だ。だが、誠意だけで世界が動くほど甘くはないだろう。
夜になった。
明日が本番だ。
各勢力の代表が到着し始めている。宿舎には物々しい護衛の気配が漂い、空気が張り詰めていた。異なる種族の護衛同士が互いを警戒する目で見つめ合い、廊下ですれ違うたびに険悪な気配が漂っていた。
ヴァルゼンは自室で、フェリクスが作った資料を読み返していた。数字と図表。交渉のシナリオ。想定問答。「こう言われたらこう返す」という選択肢が何通りも書かれている。
手が震えていた。
ページをめくるたびに、指先が滑る。文字が頭に入ってこない。読んでいるのに、何も覚えられない。
「……できるのかな、僕に」
誰にも聞こえない声で呟いた。
明日、あの広間に立つ。世界中の権力者たちの前に。そして彼らを説得する。協力してくれ、と。全種族で力を合わせなければ、この世界は終わると。
それを言うのは、ゴブリンより弱い魔王だ。
資料を閉じた。震えは止まらなかった。
でも——パーティの仲間たちが作ってくれた資料の重さは、確かに手の中にあった。フェリクスの分析、ザガンの根回し、グリゼルダの警備、ミラベルの心情報告。
一人じゃない。それだけが、今のヴァルゼンを辛うじて支えていた。
窓の外で、月が雲に隠れた。明日の天気は——どうでもいいか。天気がどうあれ、逃げられないのだから。




