殿を務める魔王
殿を務める魔王
残りの要所は三つ。うち二つは魔族領の奥深くにある。
ベリオスの伝令を受けてから二日、一行は魔族領の入口に到達した。人間の領地とは空気が違う。魔力の濃度が高く、肌にぴりぴりとした刺激を感じる。空の色もわずかに暗く、木々の形が歪んでいた。
問題は、第七の要所への道だった。
フェリクスが地図を広げ、険しい顔で指差した。
「第七の要所は、黒鉄の峡谷の奥にあります。かつて魔王軍が鉱石を採掘していた場所です。しかし峡谷の入口付近が虚淵の侵食域に覆われている」
「侵食域……」
「広さは半径二キロメートルほど。小規模ですが、内部には虚淵の魔物が出没する可能性があります。聖泉の谷で遭遇したものより大型の個体が潜んでいてもおかしくない」
フェリクスがモノクルで侵食域の方角を観察した。レンズの奥で術式が回転している。
「戦闘力のある者が先行して道を切り開く必要がある」
エルヴィンが聖剣を抜いた。刃が白い光を放つ。聖属性の輝きが虚淵に対して有効なのは、これまでの戦闘で実証済みだ。
「任せろ。俺とグリゼルダで先行する」
「私も同行しましょう。侵食域の解析データが欲しい。内部の魔力構造を把握すれば、今後の対策に活かせます」
フェリクスも立ち上がった。レナの護衛隊からも五名が先遣隊に志願する。Sランク冒険者を含む精鋭だ。
ヴァルゼンは——
「僕は後ろで待ってます……」
素直に言った。侵食域の中に入るのは怖い。虚淵の魔物と戦えるわけがない。自分が前に出ても足手まといになるだけだ。ここは素直に認めるしかない。
グリゼルダが目を見開いた。蒼灰色の瞳に、感嘆の色が浮かんでいる。
「殿を務めてくださると?」
「え」
「さすがです、ヴァルゼン様。先遣隊が侵食域を突破する間、後方からの襲撃を警戒する——殿は最も危険な任務です。前方の敵は見えるが、後方の敵は見えない。それを自ら買って出るとは」
(殿って……ただ怖くて前に出たくないだけなんですが)
エルヴィンが力強く頷いた。
「全軍の殿を自ら務める。これぞ王の覚悟だ。安心しろ、ヴァルゼン。前は俺たちが切り開く! お前は後方の安全を守ってくれ!」
「安心してるんじゃなくて怖いだけなんですが……」
誰も聞いていなかった。しかし考えてみれば、自分が後方にいると魔力感知で背後の脅威を察知できる。それは確かに「殿」としての機能を果たしているのかもしれない。意図してそうなったわけではないが。
先遣隊が出発した。エルヴィン、グリゼルダ、フェリクス、レナの護衛隊五名。合計八人が侵食域に向かっていく。エルヴィンの聖剣が白い光の軌跡を引き、グリゼルダの大剣が黒い靄を切り裂く。
残されたのはヴァルゼン、ミラベル、ザガン、ガロンの部隊、そしてレナの護衛隊の残り七名。
ヴァルゼンは峡谷の手前で待機していた。
侵食域が見えた。
二キロメートル先、峡谷の入口を覆うように黒い靄が広がっている。植物は枯れ、岩は黒ずみ、空気すら歪んで見える。世界に穴が空いたような光景だった。
ヴァルゼンの魔力感知が、侵食域の内部を読み取った。
(……三体。虚淵の魔物が三体。中級クラス。先遣隊なら問題ない。だが——二キロメートル先の奥に、もう一体。大型。これは厄介かもしれない)
無意識に、侵食域の状況を把握していた。274話から磨かれた魔力感知が、二キロメートル先の状況まで読み取っている。
自分でも驚いた。こんなことができるようになったのか。いつの間に。
「ヴァルゼン様、大丈夫ですか?」
ミラベルが心配そうに寄り添った。翡翠色の瞳が揺れている。
「あ、うん。大丈夫。先遣隊も問題なさそう。ただ、奥にもう一体大きいのがいるから——フェリクスに伝えてもらえますか」
ガロンが伝令を走らせた。
数分後、遠くで光が弾けた。聖剣の一閃。続いてグリゼルダの大剣の衝撃波。フェリクスの魔法の閃光。
中級の三体は三十秒で片付いた。大型の一体にはもう少しかかったが、事前に情報があったおかげで不意打ちは防げたようだ。
「……やっぱり、あの人たちがいれば僕は何もしなくていいんだよな」
「何もしなくていい、ではありません」
ザガンが穏やかに言った。
「陛下が殿を務めてくださっているからこそ、先遣隊は安心して前に集中できるのです。そして侵食域内部の情報を二キロ先から把握し、伝令を送った。それこそが王の戦い方です」
(殿は殿でも、ただ突っ立ってるだけの殿なんだが……。あと情報を送ったのも、怖くて感知を全開にしてたら見えちゃっただけなんだが……)
一時間後、先遣隊が戻ってきた。侵食域に安全な通路が確保されたという。
「よし、行くぞヴァルゼン!」
エルヴィンが手を振った。聖剣には虚淵の魔物の体液がこびりついていたが、本人は気にしていない。
侵食域の向こうに、第七の要所がぼんやりと光っていた。
黒い靄の中に浮かぶその光は、暗闇の中の蝋燭のように頼りなく——だが確かに、そこにあった。
「……行きましょう」
足が震えていた。だが前に出た。
殿ではなく、今度は先頭に。仲間が切り開いた道を、歩いた。




