誤解フィルター全開
誤解フィルター全開
285話の発見から一夜明け、パーティの反応がようやく収束し——なかった。
むしろ一晩寝かせたことで、各メンバーの誤解フィルターが過去最高の精度で作動し始めていた。寝ている間に脳内で情報が整理され、それぞれの「解釈」が確固たるものになってしまったらしい。
まずエルヴィンだった。
「やはり最初から全て計算していたんだな、ヴァルゼン!」
朝食の干し肉をかじりながら、勇者が断言した。碧眼が輝いている。朝日よりも眩しい。太陽が二つ昇ったかのようだ。
「計算してないです。昨日も言いましたけど、全部偶然です」
「偶然と言えるのが凄い。340日間、無意識に最適解を歩き続ける——それを『偶然』と呼べる器の大きさよ! 普通の人間なら自慢するところだ。それを偶然と言い切る謙虚さ。やはりお前は最凶の魔王だ!」
(器じゃない。本当に偶然なんだ。自慢もなにも、自慢できることを何もしてないんだ)
次にフェリクスが来た。
一晩中手帳に何かを書き込んでいたらしく、目の下に隈ができている。手帳が三ページ分増えていた。だが瞳はぎらぎらと輝いていた。知的好奇心が睡眠欲を完全に凌駕している。
「改めて計算しました。旅の序盤からの全行程で八つの結節点を最適順序で通過する確率は——」
「聞きたくないです」
「三千二百万分の一です」
「聞きたくなかったのに……」
「しかもこの数字は、単に結節点を通過する確率です。結節点間を最短距離で繋ぐ経路を選んでいたことまで加味すると、確率はさらに下がります。天文学的な数字になるので省略しますが——340日分の布石。恐ろしすぎる。いえ——布石という言葉すら不適切かもしれない。これはもはや本能の次元だ」
フェリクスの分析フィルターが全開だった。数字が出てくると、もう誰にも止められない。モノクルの奥の目が狂気じみた光を放っている。知の探究者が、理解の限界に到達した時の顔だった。
三番手はグリゼルダだった。
「ヴァルゼン様」
女騎士が正面に立った。蒼灰色の瞳が真剣だった。背筋が伸び、甲冑の肩当てが朝日を反射している。
「戦の前に道を敷く。これぞ王者の戦術です。戦場に立つ前に、退路と補給路と攻撃経路を全て確保しておく。私は騎士団時代、幾多の将を見てきましたが——戦場に立つ前に勝利への道を完成させていた者は、あなたが初めてです」
「戦術じゃないです。逃げてただけです」
「逃走すら戦術に昇華する。逃げながら魔力の道を敷く。戦わずして戦場を支配する。やはりあなたは——私が仕えるべき王だ」
「違います」
グリゼルダは聞いていなかった。武人フィルターが完全に閉じている。
四番手。
「ヴァルゼン様……っ」
ミラベルが泣きながら近づいてきた。涙腺がもう修復不可能だ。帽子の下から翡翠色の瞳が潤んで光っている。
「あなたの優しさが、世界を繋いだのですね……」
「ミラベル、落ち着いて」
「落ち着けません! だって——あなたが怖がりながら歩いた道が、人々と出会った道が、仲間を大切にした道が——全部、世界を救う道だったんですよ? こんな美しい話がありますか? 私は……私は……」
(美しくないです。転んだり泣いたり逃げたりしてただけです)
ミラベルの号泣が止まらない。ハンカチを三枚消費した。四枚目はグリゼルダが差し出した。女騎士は無表情だったが、慣れた手つきだった。
そしてガロンたちまで便乗し始めた。
「やはり魔王陛下は——旅の序盤のあの時から、全てをお見通しだったのですね。我々の命を救ったのも、この道を敷くための一手だった」
「見通してないです。転んだだけです」
「ご謙遜を。あの日、私たちの命を救ってくださったのも、この日のための布石だったのでしょう。命を救うことで恩を生み、恩を返す者が要所の護衛になる——完璧な策略です」
「策略じゃないです。偶然です。全部偶然です」
レナの護衛隊も。
「ギルドマスターに報告しなければ。『魔王は340日前から世界救済の道を敷いていた』と」
「その報告はやめてください! お願いですから!」
ヴァルゼンの懇願は、いつも通り誰にも届かなかった。
全員が自分のフィルターで「解釈」してしまう。エルヴィンは「計算」と。フェリクスは「布石」と。グリゼルダは「王者の戦術」と。ミラベルは「優しさ」と。ガロンは「策略」と。レナは「情報」と。
誰一人として「偶然」を受け入れない。
(偶然です。全部偶然なんです)
心の中で叫んだが、もはや叫ぶ気力も残っていなかった。
喧騒の中で、一人だけ静かな者がいた。
ザガンが、焚き火の跡の前に座って微笑んでいた。
昨夜ではなく、もっと前の夜——ヴァルゼンに告げた言葉を思い出しているのだろう。「あなたは意図せずして、世界に魔力の道を敷いていた」——あの言葉が、今日、全員の前で証明された。
ザガンの琥珀色の瞳が、ヴァルゼンを見つめていた。
「我が王……やはり、あなたは」
その先は声にならなかった。だが老臣の尾が穏やかに揺れていた。四百年の感情を込めた、静かな揺れだった。
ヴァルゼンは溜め息をついた。
何十回目かの、今日の溜め息だった。
でも——不思議と、嫌な気分ではなかった。
誤解だ。全部誤解だ。だがこの誤解の中に、確かな信頼がある。自分を信じてくれている人たちが、ここにいる。
その信頼が——たとえ誤解の上に建てられたものであっても——温かいことに変わりはなかった。




