目を閉じる理由
目を閉じる理由
風見の丘に戻り、第一の要所の活性化作業が始まった。
フェリクスが前日の解析結果を元に手順を組み立て、ヴァルゼンが実行する。理論上は単純だった。魔力感知で結節点の詰まりを捉え、正しい順序で魔力を通す。それだけだ。
それだけのはずだった。
「では魔王殿、お願いします」
フェリクスが一歩下がった。
パーティの全員が、そしてガロンたちが、固唾を呑んでヴァルゼンを見守っている。二十人以上の視線が一点に集中している。その視線の圧力だけで、ヴァルゼンは逃げ出したくなった。
(……この視線が一番きつい)
ヴァルゼンは深呼吸をして、目を閉じた。
閉じた理由は単純だった。魔力感知を全開にすると、周囲の魔力の流れが視界に重なって見える。地面が歪み、空が波打ち、人の輪郭が溶けたように揺らぐ。世界が水彩画に水をぶちまけたような状態になるのだ。
怖いのだ。
世界がぐにゃりと曲がって見える恐怖に耐えられないから、目を閉じる。それだけの理由だった。視覚を遮断すれば、魔力の感知だけに集中できる。怖い光景を見なくて済む。実に消極的な動機だった。
だが傍目には——魔王が目を閉じて、静かに立っている。微動だにしない。風が銀灰色の髪を揺らし、黒いローブの裾がたなびいている。
グリゼルダが息を呑んだ。
「あの集中力……武の極みを超えた境地だ」
ヴァルゼンには聞こえていなかった。意識は完全に魔力の世界に沈んでいた。
結節点の構造が、手に取るようにわかる。三層に絡まった魔力の糸。どれが表層で、どれが深層で、どの順番で解けば全体が通るか。昨日把握した解法の通りだ。
ゆっくりと、一本ずつ。
指を動かすわけではない。意識だけで魔力の流れに触れ、詰まりを解していく。水が凍った管に温かい息を吹きかけるように、少しずつ、少しずつ。焦ってはいけない。焦ると糸が余計に絡まる。
一層目の詰まりが解けた。魔力がさらさらと流れ始める。
二層目。ここは少し複雑だ。三本の糸が交差している。右の糸を先に引いて——通った。
三層目。中心の結び目。これが一番大きい。左に回すように——ゆっくりと——
解けた。
何分経っただろう。十分か、三十分か。時間の感覚が曖昧だった。
最後の結び目がほどけた瞬間、魔力が一斉に流れ始めた。停滞していた巨大な流れが動き出し、結節点全体が脈動するように光を放った。水門が開いたかのように、魔力が奔流となって丘の中を駆け巡る。
ヴァルゼンは目を開けた。
世界が元に戻っていた。丘の上に吹く風が穏やかになり、歪んでいた空気が正常に戻っている。そして足元の地面が——淡い光を宿している。枯れかけていた草が、みるみるうちに緑を取り戻していた。
全員が拍手していた。
「お見事です、ヴァルゼン様!」
グリゼルダが珍しく声を上げた。蒼灰色の瞳に感動の色が浮かんでいる。
「あの佇まい……武の極みを超えた境地です。目を閉じ、身じろぎもせず、ただ立っているだけで世界を変える。これぞ王者の戦い方」
(目を閉じてるのは怖いからなんですが)
「目を閉じて世界を見通しているんだ!」
エルヴィンが興奮して叫んだ。
「すごいぞ、ヴァルゼン! まるで世界そのものと対話しているようだった!」
(対話じゃなくて、目を開けると世界がぐにゃぐにゃして怖いから閉じてただけなんですが)
フェリクスがモノクルを覗き込みながら、データを記録していた。ペンが走る速度がいつもの倍だ。
「魔力の流れが正常化しています。結節点は完全に活性化された。……驚くべき精度だ。僕の理論では、この作業には最低でも二時間かかるはずだったのに」
「何分でしたか?」
「十二分です」
フェリクスの声が震えていた。二時間の見積もりが十二分。理論値の十分の一。
ミラベルが涙を拭きながらヴァルゼンの手を取った。小さくて温かい手だった。
「お疲れさまです、ヴァルゼン様。お体は大丈夫ですか?」
「あ、はい。ちょっと頭がぼんやりしますけど、大丈夫です」
「無理をなさらないで。あなたはいつも、自分のことを後回しにするのだから……」
(後回しにしてるんじゃなくて、自分が一番心配なんですが……)
ザガンが静かに歩み寄り、一礼した。
「お見事でございました、陛下。これが第一歩ですな」
「ザガン……うん。あと七つ、ですよね」
「はい。しかし陛下のお力があれば、何の心配もございません」
心配しかない。だが言わなかった。
風見の丘の頂上が、淡い光を宿し続けていた。枯れかけていた草原が緑を取り戻し、途絶えていた虫の声が戻ってきている。
第一の要所、活性化完了。
残り七つ。




