命乞いの伝説
命乞いの伝説
風見の丘を出発し、第二の要所へ向かう街道を歩いていた時のことだ。
旅の五日目。天気は穏やかで、街道沿いには麦畑が広がり、遠くに教会の尖塔が見える。平和な風景だった。
だが前方から、十数人の集団が近づいてきた。
グリゼルダが即座に剣の柄に手をかけた。エルヴィンが前に出る。だが敵意は感じられない。むしろ——何だろう、あの妙に恭しい歩き方は。行軍に慣れた者特有の規律正しい足取りだが、殺気がない。
集団の先頭に立っていたのは、角の折れた魔族の男だった。片方の角が根元近くで折れ、古い傷跡になっている。体格は良いが、今は鎧ではなく旅人の外套を着ていた。頬には古い刀傷が一本走っている。
男がヴァルゼンの十歩手前で立ち止まり、膝をついた。後ろの集団も一斉に膝をつく。統率のとれた動きだった。
「お久しゅうございます、魔王陛下」
「え……どちら様でしょうか」
本当に覚えがなかった。
男が顔を上げた。琥珀色の瞳に、懐かしさと敬意が混じっている。
「ガロンと申します。かつて魔王軍の歩兵第八小隊におりました。——陛下が交渉で命をお救いくださった者です」
交渉。
ヴァルゼンの記憶が、一瞬だけ明瞭になった。
旅の序盤の序盤。魔王軍が瓦解した直後、残党の一部が人間の領地で暴れていた。ヴァルゼンは偶然その場に居合わせ——偶然だ——人間側の兵士に囲まれた魔族の兵士たちの前に立ちはだかり——立ちはだかったのではなく逃げ場がなかっただけだ——そして言った。
『こ、殺さないでください……! この人たちも、その、悪い人じゃないんです……たぶん……!』
命乞いだった。紛れもない命乞い。声は裏返り、膝は震え、涙が半分出ていた。英雄的要素はゼロだった。
しかしどういうわけか、あの場にいた人間の兵士たちは剣を収めた。ヴァルゼンの目があまりにも必死だったのか、あるいは「魔王自ら部下のために頭を下げた」という事実に面食らったのか。理由は今でもわからない。
だがガロンたちは助かった。それは事実だ。
「あの時の恩を返しに来ました。魔王様の交渉術で命を救われた者です」
(交渉術じゃなくて命乞いだったんですけど……)
訂正したかった。心の底から訂正したかった。だがガロンの目が真剣すぎて、あの琥珀色の瞳にこちらへの純粋な敬意が宿っていて、「あれ命乞いでした」とは口が裂けても言えなかった。
「あの日から、我々はずっと魔王陛下のことをお慕いしておりました。陛下の交渉で屈服した人間の兵士たちは、今でもあの日のことを語り継いでいるそうです。『魔王の眼光に射竦められた』と」
(眼光じゃなくて涙目だったんだが。そして屈服じゃなくて困惑だったんだが)
エルヴィンが感動していた。碧眼が輝いている。
「なんということだ……旅の序盤の時点で、お前はすでに人の心を動かしていたんだな、ヴァルゼン!」
「動かしてないです」
「謙虚だな!」
毎回同じパターンだ。否定すると謙虚だと言われ、黙っていると同意したと解釈される。どちらに転んでも誤解が強化される無限ループ。
ガロンが立ち上がり、後ろの集団を手で示した。
「皆、魔王様に恩がある者たちです」
十人。いや、数えると十五人いた。魔族もいれば人間もいる。年齢も性別もばらばらだ。若い魔族の女性がいて、白髪の人間の老人がいて、片腕の元兵士がいて、僧衣の少年がいる。共通しているのは、全員がヴァルゼンに向ける視線に敬意が宿っていることだけだった。
「旅の序盤の各地で、魔王陛下に助けていただいた者たちを集めました。旅の護衛として、どうかお供させてください」
「十五人も!?」
「いえ、集まったのはもっと多かったのですが、旅に同行できる者だけを選びました。本来は五十人以上おりまして」
五十人以上。旅の序盤の旅で、自分はそんなに多くの人に関わったのか。覚えがない。逃げていた記憶しかない。
フェリクスが小声でヴァルゼンに耳打ちした。
「魔王殿、旅の序盤での行動が種を蒔いていたようですね。これは計算の上で——」
「計算じゃないです。全部偶然です」
「ですよね」
フェリクスのその「ですよね」には、明らかに「偶然であるはずがない」という含みがあった。モノクルの奥の目が、分析者の光を放っている。
ガロンたちは結局、同行を許された。断る理由がなかったし、エルヴィンが「仲間は多いほどいい!」と即決してしまった。
十五人の護衛を引き連れて歩くヴァルゼンの姿は、傍から見れば堂々たる魔王の行軍に見えただろう。
本人は胃痛に耐えていただけだが。




