恩返しの村
恩返しの村
風見の丘へ向かう街道の途中に、小さな村があった。
二十軒ほどの家屋が肩を寄せ合うように並ぶ、どこにでもある農村。秋の収穫が終わったばかりなのか、納屋の前に穀物袋が積み上げられ、畑では刈り入れを終えた茎が短く揃っている。のどかな光景だ。
だがヴァルゼンにとっては、胃がきりきりと痛む場所だった。
「あ、あの村は……」
「ん? 知っている場所か、ヴァルゼン?」
エルヴィンが不思議そうに尋ねた。
知っている。ここは旅の序盤で、魔族の残党に追われて必死で走っていた時に通りかかった村だ。追手の攻撃魔法が村の畑を焼きかけた時、ヴァルゼンが転んで——転んだ拍子に追手の足元の地面がたまたま崩れて——結果的に村が助かった、あの村だ。
偶然だ。全部偶然だ。転んだのも、地面が崩れたのも。あの時のヴァルゼンは顔面から地面に突っ込んで鼻血を出しただけで、英雄的行為は一切していない。
だが村人たちにとっては、そうではなかったらしい。
「ま、魔王様だーーーっ!!」
村の入り口に立っていた少年が絶叫した。羊の番をしていたらしく、手には牧杖を握っている。その少年の声が引き金になった。
次の瞬間、村全体が爆発したかのような騒ぎになった。家々から人が飛び出し、畑から農夫が走ってくる。子供たちが歓声を上げ、老人たちが涙ぐみ、犬まで尻尾を振っている。鶏が驚いて飛び回り、羽毛が空に舞った。
「魔王様がお越しだ!」
「花を! 花を持ってこい!」
「祝宴の準備だ!」
花びらが撒かれた。文字通り、頭の上から。庭先に咲いていた花を片っ端から摘んだのだろう。色とりどりの花弁がヴァルゼンの灰銀色の髪に降り注ぐ。
(逃げたい逃げたい逃げたい)
ヴァルゼンの本能が全力で撤退を叫んでいたが、エルヴィンが肩をがっしりと掴んでいるせいで一歩も動けなかった。勇者の握力は人間の限界を超えている。
「見ろ、ヴァルゼン! お前が救った村だ!」
「救ってないです。転んだだけです」
「ふっ、謙虚だな」
謙虚じゃない。事実だ。
村長が駆け寄ってきた。恰幅のいい中年の男で、日焼けした顔に涙を浮かべている。後ろから奥方が駆けてきて、焼きたてのパンを差し出した。まだ湯気が出ている。
「魔王様! まさかまたお越しいただけるとは! あの日、魔王様が命を賭けて村を守ってくださったこと、我々は一日たりとも忘れておりません!」
(命を賭けてない。転んだだけだ。鼻血を出しただけだ)
「あの日から、この村は『魔王様の畑』と呼ばれるようになりまして。焼けかけた畑も見事に復活し、今年は過去最高の収穫でございます!」
「そ、それはよかったです……」
それだけは素直に嬉しかった。理由はどうあれ、畑が無事だったのは本当によかった。人々の暮らしが守られたのなら、それに越したことはない。
村人たちに半ば強引に広場まで連行されると、そこにはすでに長テーブルが並べられ、料理が所狭しと置かれていた。焼いた芋、煮込んだ豆、チーズ、蜂蜜漬けの果物。村の御馳走が一堂に会している。
「い、いつの間に……」
「魔王様がこの街道を通られるという噂を聞いてから、三日かけて準備しておりました!」
三日。この村人たち、三日前からヴァルゼンが来ることを知っていたのか。
フェリクスが小声で耳打ちした。
「冒険者ギルドの情報網でしょう。我々の旅程は半ば公開情報になっていますから」
「なってるんですか!?」
「魔王が世界を救う旅に出た、というのは今や大陸中の話題ですよ、魔王殿」
知らなかった。知りたくなかった。
祝宴が始まった。村人たちは次々とヴァルゼンのもとを訪れ、感謝の言葉を述べた。
「あの日、魔王様のおかげで娘が無事でした」
「畑を守ってもらえなかったら、あの冬は越せませんでした」
「子供たちに毎晩、魔王様の話を聞かせています。『怖い魔族が来ても、魔王様が守ってくれる』って」
一人一人の言葉が、胸に刺さった。
彼らの感謝は本物だった。きっかけは誤解だ。ヴァルゼンは何もしていない。転んだだけだ。だがその「偶然」がこの村を救い、村人たちの人生を変えた。子供たちは魔王の話を聞いて安心して眠り、農夫たちは畑を耕して冬を越した。それは紛れもない事実だった。
誤解で始まった恩が、本物の感謝になっていた。
その重さに、ヴァルゼンは何も言えなくなった。
ミラベルが隣でまた泣いていた。ハンカチがぐっしょりだ。グリゼルダは黙って村の蜂蜜酒を飲んでいる。三杯目だ。フェリクスは手帳に何かを書き込み、エルヴィンは村の子供たちと腕相撲をしていた。当然、手加減している。ザガンだけが、静かにヴァルゼンの表情を観察していた。
祝宴の終わり際、村長が深々と頭を下げた。
「魔王様。次にお困りの時は、何でも申してください。この村の全てを、魔王様にお預けします」
「そ、そんな大げさな……」
「大げさではございません。魔王様は、この村の恩人です」
村を出る時、子供たちが街道の先まで手を振り続けていた。小さな手が、夕日の中で揺れている。
ヴァルゼンは何度も振り返って手を振った。
胸の奥が——あの夜、古都の広場で感じたのと同じ熱さで——痛かった。




