偶然か、必然か。
偶然か、必然か。
翌朝、ヴァルゼンは一人で遺跡の回廊を歩いていた。
朝食の後、「少し散歩してきます」と言って抜け出した。エルヴィンが「一人で大丈夫か!? 魔物が出たら!?」と叫んだが、グリゼルダが「少し一人にしてやれ」と止めてくれた。ありがたい。グリゼルダは時々、誰よりも察しがいい。武人の目は節穴かもしれないが、人の心を読む目は鋭い。
回廊の壁に刻まれた紋様を指でなぞりながら歩く。先代魔王の時代に造られた遺跡だ。壁の紋様は魔力循環の経路を示しているとフェリクスが言っていた。指で触れると、紋様が微かに反応する。淡い光が指先に吸い寄せられるように灯る。
自分の魔力に反応しているのだ。
先代が造った遺跡が、後継の魔王の存在を感知している。
偶然、魔王になった。
偶然、勇者に出会った。
偶然、仲間ができた。
偶然、ここまで来た。
全部、偶然。
自分の力じゃない。
自分の意志じゃない。
──本当に?
ヴァルゼンは足を止めた。
壁の紋様が、淡い光を放っていた。触れた部分だけではなく、周囲の紋様まで光り始めていた。ヴァルゼンが近づくだけで、遺跡が目を覚ますように光る。魔力感知が共鳴しているのだ。
偶然だと思いたかった。
偶然なら、責任がない。偶然なら、「しょうがない」で済む。偶然のせいにできる。失敗しても「偶然選ばれただけだから仕方ない」と言い訳できる。
だが──偶然にしては、あまりに多くのことが噛み合っている。
魔力感知の異常な精度。交渉力。人望。
全て、自分が「弱いから」身についたものだ。
戦えないから逃げた。逃げるために危険を感知する力が研ぎ澄まれた。死にたくないという一心で。
戦えないから頼んだ。命乞いを繰り返すうちに、人を動かす言葉を覚えた。
戦えないから仲間に頼った。何もできない自分が生き延びるには、誰かの力を借りるしかなかった。そうやって手を伸ばし続けるうちに、人が集まるようになった。
弱さが、全ての起点になっている。
先代は強さで世界を支えた。
自分は──弱さで、同じことができるかもしれない。
そんな都合のいい話を、信じていいのか。
信じてしまったら──もう、逃げられない。
「……答えが出ない」
壁に背を預けて、天井を見上げた。高い天井だ。先代魔王の時代の遺跡は、何もかもが大きい。最強の王に相応しい、壮大な空間。
自分にはこの空間は大きすぎる。
偶然か、必然か。
どちらだとしても──。
ヴァルゼンはふと気づいた。
どちらでも、やるべきことは変わらないのだ。
世界は壊れかけている。
自分に条件が揃っている。
偶然だろうが必然だろうが──やらなければ、世界が終わる。
五年後には──この遺跡も、この回廊も、壁の紋様も。仲間たちの笑顔も。全てが消える。
その事実だけが、動かない。
「考え事をしているな」
声が聞こえた。
振り返ると、回廊の向こうにエルヴィンが立っていた。朝日が背後から差し込み、金髪が光の輪を作っている。眩しい。物理的に眩しい。
「一人にしてくれるんじゃなかったの……」
「グリゼルダには止められたが、心配だから来た。怒られた。めちゃくちゃ怒られた。だが来た」
悪びれもせずに言った。この男は本当に真っ直ぐだ。嘘がつけないし、我慢もできないし、怒られても懲りない。
エルヴィンが隣に来て、同じように壁に背を預けた。大きな体が壁に寄りかかると、ぎしりと音がした。壁の紋様がエルヴィンにも反応して、微かに光った。
「俺にはわからんぞ。お前が何を悩んでいるか」
「知ってる」
「だが、お前なら答えを出す。それだけはわかる」
ヴァルゼンはエルヴィンの横顔を見た。
碧い瞳は前を向いている。左頬の傷跡が朝の光に照らされていた。大戦の勲章。この男にも背負っているものがある。
「なんでそう思うの」
「勘だ」
「勘……」
「俺の勘は戦場じゃ百発百中だぞ。日常ではまあ、たまに外れるが」
「たまに? だいぶ外れてると思うけど」
「失礼な。ヴァルゼンのことに関しては一度も外れたことがない」
盛大に外れている。最初の出会いから外れている。昨日の神の鏡で証明された。だが──。
ヴァルゼンは小さく笑った。
笑えた。昨日までは笑えなかったのに。
「ありがとう、エルヴィン」
「なんだ急に。気持ち悪いな」
「気持ち悪いって何」
「いつもは『ひいい』とか『やめてください』とか言うのに、急に素直にお礼を言われると調子が狂う」
「人の反応を何だと思ってるの」
二人で回廊を歩き始めた。朝の光が石畳に差し込んでいた。紋様が二人の足元で淡く光っている。
宿営地に戻ると、ザガンが焚き火の前で待っていた。
朝食の片付けは終わっている。ミラベルとグリゼルダの姿は見えない──テントの方から水を汲む音が聞こえた。フェリクスは相変わらず羊皮紙に向かっている。
「ヴァルゼン様」
元参謀が静かに立ち上がった。
「少し、お時間をいただけますか」
ヴァルゼンはうなずいた。
ザガンが近づいてきた。焚き火の明かりに照らされた顔は、いつもの無表情だ。だがその目には──穏やかな光があった。温度のある光だ。
「魔王とは──選ぶものです」
短い言葉だった。
「血筋で決まるものでも、力で証明するものでもない。偶然でも、必然でもない。──自分の意志で、選ぶものです」
ザガンが一礼した。深く、静かに。
「先代も──最後にはそう仰っておられました。『私は王として生まれた。だが、王であることを選んだのは──私自身だ』と」
その言葉が、ヴァルゼンの胸に沈んでいった。
静かに、深く。石が水面に沈むように。波紋を広げながら。
選ぶもの。
偶然でも、必然でもなく。
自分で──選ぶ。




