その夜、ヴァルゼンは眠れなかった。
その夜、ヴァルゼンは眠れなかった。
宿営地のテントの中で、薄い毛布にくるまったまま天井を見つめている。テントの布が夜風に揺れて、ぱたぱたと小さな音を立てていた。隣のテントからはエルヴィンの豪快ないびきが聞こえてきた。あの男はどんな状況でもよく眠る。世界が滅びかけていると聞いた日の夜でも、こうしていびきをかいて眠れる。ある意味、最強だ。
条件が俺に合っている。
フェリクスの言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。回転が止まらない。寝返りを打っても、目を閉じても、耳を塞いでも。
魔力感知。交渉力。人望。
再起動に必要な三つの条件。そのすべてが──自分の持つ能力と一致している。
偶然?
偶然の一致?
三つも揃って偶然と言えるのか?
それとも──。
ヴァルゼンは毛布を頭まで引き上げた。考えたくなかった。都合のいい話すぎて、信じられなかった。信じてしまうのが怖かった。
自分は偶然魔王になった。血筋が残っていたから。他に候補がいなかったから。押し付けられただけだ。それが真実だ。ずっとそう思ってきた。
先代が自分を選んだ? 世界の崩壊を予見して? 弱い自分の資質を見抜いて?
そんな壮大な話があるものか。自分はゴブリンに舐められていた男だ。給仕をさせられていた男だ。神の鏡で全世界に配信された。
でも──条件が一致しているのは事実だ。
嫌な感じがする。それだけの感覚が「異常精度の魔力感知」と呼ばれているのも事実だ。
命乞いしかできないのに、結果的に交渉が成立しているのも事実だ。
何もしていないのに人が集まるのも──。
ヴァルゼンは毛布の中でうめいた。
「……考えるのをやめたい」
呟きが毛布に吸い込まれた。
テントの布が揺れた。外に人の気配がする。
ヴァルゼンは慌てて毛布から顔を出した。夜目が利かないが、テントの入口に光が見える。青白い、幾何学的な光。
「汝に問う」
セラフィオンだった。
テントの入口に立っている。いや、浮いている。例によって地面から数センチ浮いた状態で、三対の翼が淡く発光していた。暗闇の中でぼんやりと光る神使の姿は、控えめに言って不気味だった。
「──テントの前に浮かんでないでもらえますか。心臓に悪いので」
「我は観測者だ。魔王の動向を観測するのは職務の範囲内──」
「夜中にテントの前で浮いてるのは職務じゃなくて不審者です。通報されますよ」
「誰に」
「……冒険者ギルドとかに」
セラフィオンの翼が一瞬だけ不規則に明滅した。図星を突かれた時の反応だ。ミラベルが以前指摘していた。感情がないと言い張っているくせに、翼で全てがバレている。
「……少し、話がある」
セラフィオンの声が、珍しく柔らかかった。
いや、柔らかいというか──超然とした仮面が、わずかに緩んでいた。角が取れたと言うべきか。
ヴァルゼンはテントから出た。夜風が冷たかった。星が見える。北の空には冬の大三角形が輝いている。南の空だけが暗い。虚淵に侵された地域が近いためか、南の星が見えない。闇が広がっている。世界が壊死しつつある証拠だ。
「お前が偶然魔王になったのではない」
セラフィオンが言った。前置きなく、直球で。神使は遠回しな言い方をしない。
「え」
「お前に資質があったからだ」
ヴァルゼンは固まった。
セラフィオンの金色の瞳が、夜空の星を映していた。瞳の中の幾何学紋様が、ゆっくりと回転している。星の光を受けて、紋様が淡く輝いていた。
「我は観測者として、多くの魔王を見てきた。何百年もの間。力ある者、知恵ある者、野心ある者。残虐な者もいた。慈悲深い者もいた。どの魔王も、それぞれの形で世界の秩序を担った」
翼が微かに揺れた。
「しかし──お前のような者は、一人もいなかった」
「……それは、弱いからでしょう。弱い魔王は今まで一人もいなかった──」
「違う」
セラフィオンの声が鋭くなった。超然とした仮面が一瞬だけ剥がれた。
「力なき者が秩序を生む。それは我の観測史上、一度もなかったことだ。お前の周りでは、力の法則が書き換わる。強者が弱者に仕え、敵が味方になり、種族の壁が溶ける。それは──理屈では説明がつかない。我の観測眼でも、現象の記述はできるが原理はわからない」
セラフィオンが一歩──浮いたまま一歩──近づいた。
「それは──偶然では、ない。お前が偶然魔王になったのではない。お前に資質があったから──世界が、お前を選んだのだ」
夜風がヴァルゼンの銀髪を揺らした。
「……考えるのをやめたい」
同じ言葉が、また口から出た。今日だけで何度目だろう。
セラフィオンの翼が不規則に明滅した。困惑の合図だ。
「……おい、魔王。今、かなり重要なことを告げたつもりなのだが」
「わかってます。わかってるんです。重要なのは。世界が選んだとか、資質があるとか、すごく重要なことを仰ってるのは。でも──」
ヴァルゼンは夜空を見上げた。
「受け止めきれないんです。まだ」
星が瞬いている。南の空の暗闇を除けば、美しい夜だった。
偶然か、必然か。
押し付けられたのか、選ばれたのか。
答えは、まだ出なかった。
セラフィオンが何か言おうとして、口を閉じた。
そして──珍しく、何も言わずにヴァルゼンの横に立った。浮いたまま。地面から数センチ浮いた神使と、地面に足をつけた魔王が、並んで夜空を見上げている。
不思議な沈黙だった。不快ではなかった。
超然とした神使が、黙って傍にいてくれている。それだけのことが、少しだけ──温かかった。




