フェリクスが説明を続けた。
フェリクスが説明を続けた。
「魔力循環を、人間の体に喩えてみましょう」
賢者は新しい羊皮紙を広げた。そこには人体の図が描かれている。フェリクスの几帳面な筆跡で、心臓を中心に血管のような線が全身に伸びていた。徹夜の間に描いたのだろう。疲労困憊のはずなのに、線は正確で美しかった。
「血液は心臓から送り出され、全身を巡り、また心臓に戻る。この循環が止まれば、臓器は壊死する。手足の先から順に──末端から死んでいく。世界の魔力もこれと同じです」
フェリクスの指が、地図上の線を辿った。大陸を縦横に走る魔力経路が、血管のように描かれている。
「大地の魔力は循環経路を通って世界全体に行き渡る。植物が育ち、水が浄化され、動物が生き、人間も魔族も──全ての生命がこの循環の恩恵を受けている。魔力循環は世界の生命そのものです」
グリゼルダが腕を組んだ。
「つまり、我々が普段当たり前に呼吸している空気のようなものか」
「正確には空気よりも根源的です。空気がなくなれば生物は死にますが、魔力循環がなくなれば大地そのものが崩壊する。地面が裂け、山が崩れ、海が枯れる──虚淵の周辺で起きていることの延長です」
「で、その心臓が魔王だった、と」
エルヴィンが確認するように言った。
「その通りです」
フェリクスがうなずいた。
「先代魔王ゼルヴァスは、その心臓を一人で動かしていた。強大な魔力で、世界全体の循環を制御していたのです。数百年にわたって。一日の休みもなく。誰にも知られることなく」
ザガンが静かに補足した。
「陛下が倒れてから、世界は緩やかに死に向かっていました。当初は気づかぬほど微かな変化でした。草の成長が少し遅くなる。泉の水量がわずかに減る。その程度」
ザガンの声が、微かに重くなった。
「しかし年を追うごとに──虚淵が増え、魔力が薄れ、大地が枯れていった。五年前には辺境の村がいくつか消えた。三年前には大陸東部の森が一夜で枯れた。そして今──」
「虚淵は五つの大決戦場を中心に、加速度的に拡大しています」
フェリクスが地図を指した。赤い点の周りに、薄い赤の円が広がっている。虚淵の影響範囲だ。円と円が重なり始めている場所がある。
「このまま何もしなければ」
フェリクスの声に感情はなかったが、モノクルの奥の目は厳しかった。
「数年のうちに、虚淵は世界の半分を呑み込むでしょう。十年もすれば──世界は存在しなくなる」
ミラベルが小さく悲鳴を上げた。
「そんな……十年で……」
「推定です。楽観的な推定で十年。悲観的には──五年」
五年。
たった五年で世界が終わる。
ヴァルゼンの背筋が凍った。
「だから、心臓を再起動する必要がある」
フェリクスの視線が、再びヴァルゼンに向いた。
「魔王の力で」
全員がヴァルゼンを見た。
六つの視線が──いや、セラフィオンを含めれば七つの視線が、ヴァルゼンに集中した。
ヴァルゼンの胃がさらにきつく締まった。締まりすぎて、もはや潰れかけていた。
「……その目、やめてください」
小さな声で言った。
「期待の目で見られると、胃に穴が開きそうなので。いえ、もう開いてるかもしれない」
「胃に穴が開くほどの重圧を受け止めている……さすがは魔王だ。世界の命運を一身に背負う覚悟が、もう──」
「違うから! 普通に胃が弱いだけだから! 重圧を受け止めてるんじゃなくて、重圧で潰れてるの!」
エルヴィンの解釈が即座に炸裂したが、今はそれどころではなかった。
「フェリクス。率直に聞きたいのですが」
ヴァルゼンは唾を飲み込んだ。喉が渇いていた。
「魔王の力が必要──というのは、つまり先代と同じことをしろということですか。あの、一人で世界の魔力循環を回し続ける、あの」
「それは不可能です」
フェリクスがきっぱりと言った。
「先代と同じ方法は使えない。あの方は圧倒的な魔力で力業に循環を維持していた。一人で全てを制御する方式です。ヴァルゼン殿にその魔力はない」
知っている。痛いほど知っている。昨日あれだけ派手に暴かれたばかりだ。
「では、どうやって」
「それが──まだ、わかっていないのです」
フェリクスが唇を引き結んだ。賢者の誇りが、この「わからない」を口にすることに抵抗しているのがわかった。
「原因は判明した。解決策の方向性も見えた。心臓の再起動が必要であり、それは魔王にしかできない。しかし具体的な方法──先代のやり方に頼らず魔力循環を再起動する方法は、これから解明しなければならない」
ザガンがうなずいた。
「先代の記録には、別の方法の示唆がありました。力業ではない、別の──しかし断片的で、全容はまだ見えていません。記録の一部が虚淵で消失している可能性もある」
ヴァルゼンは小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、猶予がある。今すぐ何かをしろと言われなかっただけ、ましだった。
だが問題の核心は変わらない。
世界は死にかけている。
それを止められるのは、魔王だけ。
そして今この世界にいる魔王は──自分だけ。
最弱の魔王が、世界の心臓を動かさなければならない。
「……できるのかな、俺に」
誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
つもりだった。
「できるさ」
エルヴィンが即答した。耳がいいのか、いつも聞こえているのか。
「聞こえてたの……」
「当たり前だ。仲間の声を聞き逃すかよ」
エルヴィンが笑った。だがその笑みの奥には、真剣な光があった。
「お前にしかできないことがある。なら、やるしかない。──俺たちがいる」
その言葉に、ヴァルゼンは何も返せなかった。
嬉しいのに、怖い。頼もしいのに、重い。
世界の心臓。
魔王の力。
自分に、何ができるのか。
答えは、まだ出ていなかった。




