フェリクスが口を開いたのは、全員が落ち着いてからだった。
フェリクスが口を開いたのは、全員が落ち着いてからだった。
賢者は壁に背を預け、腕を組んだまま沈黙していた。エルヴィンが叫び、ミラベルが泣き、ヴァルゼンも泣いた一連の流れの中で、一人だけ黙って何かを計算し続けていた男。
フェリクスにとって、沈黙は敗北ではない。再計算の時間だ。壊れた理論体系を解体し、データを洗い直し、新しいモデルを構築する。それが賢者のやり方だ。
「結論が出た」
静かな声だった。フェリクスの声は常に冷静だが、今はその冷静さの下に、微かな震えが潜んでいた。自分でも気づいているのかいないのか──おそらく気づいている。この男は自分自身すら分析対象にする。
全員がフェリクスを見た。
「私の分析は間違っていた」
モノクルを直す仕草すらなかった。それだけで、この発言がフェリクスにとってどれほどの重みを持つか伝わってきた。フェリクスにとって「分析が間違っていた」と認めることは、武人が「剣が折れた」と認めるのに等しい。いや、それ以上かもしれない。
「深謀遠慮はなく、戦闘力は本当に最底辺だった。戦略的撤退はただの逃走であり、沈黙の圧は単なる恐怖の表れだった。敵を屈服させた交渉は命乞いであり、仲間を活かす布陣はパニックの産物だった」
淡々と、一つ一つ列挙していく。自分の誤りを、賢者は正確に言語化した。
「私がこの数ヶ月間に構築した分析モデルは──その前提において、根本的に誤っていた。前提が誤っていた以上、そこから導き出された全ての結論は無効です」
沈黙が降りた。重い沈黙だった。
フェリクスは分析に誇りを持つ男だ。その分析が丸ごと否定された。知的プライドの崩壊。それは武人のグリゼルダに匹敵する、あるいはそれ以上の打撃だろう。
ヴァルゼンは申し訳なさで胸が潰れそうだった。フェリクスがどれほどの時間と労力を注いで「ヴァルゼン分析モデル」を構築してきたか、知っている。夜遅くまで羊皮紙に書き込み、データを照合し、仮説を立てては検証し──その全てが水泡に帰した。
「だが」
フェリクスの声に、変化が生じた。
冷静な報告の声から──何か別のものへ。
「──だがそれは」
モノクルの奥の瞳が、初めて光を帯びた。暗い分析室の奥で、新しい発見の火が灯るような。
「戦闘力がないのに、ここまでのことを成し遂げたという意味だ」
大広間の空気が変わった。
「考えてみてほしい」
フェリクスが腕を解き、両手を広げた。講義の口調になっていた。この男は新しい理論にたどり着くと、こうなる。
「戦えない者が、戦場を切り抜けた。策を持たない者が、最善の結果を導いた。カリスマなき者が、人を集めた。魔力なき者が、魔族を率いた。前提が全て間違っていたということは──逆に言えば、前提なしで全てを成し遂げたということだ」
フェリクスが腕を組んだまま、一歩前に出た。
「私が分析で導き出した結論よりも、遥かに恐ろしい」
ヴァルゼンは目を見開いた。
恐ろしい? 今のこの状況で、「恐ろしい」?
「深謀遠慮があるなら、理解できる。分析モデルに組み込める。圧倒的な戦闘力があるなら、数値で表せる。だが何もない。何もないのに、結果だけがある。理屈で説明できない。モデルに乗らない」
フェリクスのモノクルが光源石の光を反射した。
「──それは、私の知る限り最も分析不能な事象だ。そして分析不能であるということは──私の知性の上限を超えている可能性がある。それを『恐ろしい』と言わずして何と言う」
ヴァルゼンは何か言おうとして、口を閉じた。
フェリクスに「恐ろしくないです」と言ったところで、それすら「謙遜の戦略」と分析されるに決まっていた。いや、もう「戦略」とは言われないか。でも別の何かに変換されるだろう。
フェリクスがヴァルゼンに向き直った。
「ヴァルゼン殿。私の分析に多大な修正が必要になったことは事実です。恥ずべき誤りでした。しかし──あなたに仕える判断を修正する必要はない。むしろ確信が深まった」
そう言って、フェリクスは微かに──本当に微かに──笑った。唇の端がわずかに上がっただけだが、フェリクスにとってはそれが満面の笑みに等しかった。
「今後の分析はより困難になるでしょうが。何しろ、データの根拠が全て覆ったのですから。一からモデルを再構築しなければならない。──正直に言えば、知的好奇心が刺激されています」
それは賢者なりの冗談だったのか、本気だったのかわからなかった。おそらく、両方だった。
次に動いたのは、グリゼルダだった。
女騎士が、ヴァルゼンの前に進み出た。
右手に剣を持っている。鞘に収めたまま、切っ先を地面に向けて。
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。まさか──斬られる? いや、鞘に入っている。でもグリゼルダなら鞘ごと叩いても十分致命的だ。
グリゼルダが片膝をついた。
剣を両手で捧げ持ち、頭を垂れた。鎧がかちゃりと鳴った。
「武の道では──かなわぬ」
低い、だが揺るぎのない声だった。震えは消えていた。
「この方の道は、私には歩めない。力なくして人を束ね、恐れながらも逃げぬ道。それは──私の知る武とは異なるが、武に劣るものではない」
剣を捧げ直す。両手で、丁寧に。
「先ほどの問いの答えが出ました。強さとは何か──わからない。しかし、この方の傍で見つけたいと思います」
一拍置いて。
「この剣、改めてお預けいたします。ヴァルゼン殿」
ヴァルゼンは声が出なかった。
グリゼルダの頭が下がっている。あの誇り高い女騎士が。武の道に全てを捧げてきた女性が。
「あ、あの、頭上げてください……恐縮で死にそうなので……」
「それも含めて、お仕えいたします」
「含めないで! 恐縮で死にそうなのは武の道と関係ないから!」
グリゼルダの口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。あの厳格な女騎士が。
ヴァルゼンは大広間を見渡した。
エルヴィンの信頼。ミラベルの理解。フェリクスの再評価。グリゼルダの忠誠。ザガンの最初からの覚悟。
壊れたと思った信頼が──より強い形で、組み直されようとしていた。
誤解の上に成り立っていた絆が、真実の上に──組み直されようとしていた。
セラフィオンの翼が、静かに明滅していた。
金色の瞳の紋様がゆっくりと回っている。その表情は──読み取れなかった。だが超然とした仮面の下に、何かが揺れているように見えた。
試練は──終わったのだろうか。
いや、まだだ。
試練は終わったかもしれない。だが──虚淵は終わっていない。
世界は、まだ壊れ続けている。




