最初に口を開いたのは、誰も予想しなかった人物だった。
最初に口を開いたのは、誰も予想しなかった人物だった。
「……知っていた」
低く、静かな声。
ザガンだった。
全員がザガンを振り向いた。エルヴィンも。グリゼルダも。フェリクスも。ミラベルも。膝をついたままのヴァルゼンも。
大広間の空気が、一瞬だけ止まった。
元魔王軍参謀は、いつもと変わらない無表情で立っていた。腕を組み、壁に背を預け、映像が流れている間もまったく同じ姿勢を崩さなかった男。影のように静かで、影のように揺るがない。
「最初から、戦闘力がないことは見抜いていた」
大広間に、ザガンの声だけが響いた。低い声だ。感情を排した、報告のような声。だがその下に、何かが流れていた。
「魔王軍の参謀として長年仕えた者が、主の戦闘力を見誤るとお思いですか。ヴァルゼン様の魔力量が常人以下であることは、初対面の時点で計測済みです」
ヴァルゼンの呼吸が止まった。
知っていた。ザガンは──最初から。
初対面。つまり、パーティに合流した時点で。あの時からずっと。
「剣の扱い、魔法の制御、身体能力。いずれも一般兵に遠く及ばない水準でした。先代魔王ゼルヴァス陛下の足元にも及ばない──いえ、比較すること自体がおこがましい」
容赦のない分析だった。事実を事実として述べているだけだ。だがその一語一語が、ヴァルゼンの胸に突き刺さった。
「ではなぜ仕えた」
セラフィオンの声だった。金色の瞳が、初めてザガンに向けられている。超然とした神使の仮面の下に、純粋な疑問が浮かんでいた。
「戦闘力のない主に、なぜ忠を誓った」
ザガンは一拍だけ間を置いた。
壁から背を離し、姿勢を正した。
「先代魔王ゼルヴァス陛下は、最強の魔王でした。そして、最も孤独な魔王でもあった」
その声には感情がない──ように聞こえた。だがヴァルゼンの耳には、微かな揺れが聞こえた気がした。長い年月の中で積み重なった、後悔のような何かが。
「強すぎたのです。誰も追いつけなかった。助言する者はいても、対等に並ぶ者はいなかった。陛下は常に一人で決断し、一人で背負い、一人で……倒れた」
ザガンの拳が、わずかに握られた。
「私は参謀として仕えながら、その孤独を止められなかった。それが──二十年、私の中に残り続けた悔恨です」
大広間の空気が変わった。ザガンが自分の感情を語るなど、これまで一度もなかった。
「ヴァルゼン様は真逆でした。最弱で、臆病で、戦えない。しかし──人が集まる。誰も命じられていないのに、傍にいたいと思わせる何かがある」
ザガンの目が、膝をついているヴァルゼンを見た。いつもの無表情だ。だがその奥に──わずかに、温かいものが灯っていた。
「先代に欠けていたものを、この方は持っていると。理屈ではなく、直感でした。参謀にあるまじき根拠のない判断です。しかし──」
一拍。
「それでも仕えた」
大広間が静まった。
エルヴィンが、小さく息を吐いた。
グリゼルダの手が、剣の柄から離れた。
フェリクスのモノクルの奥の目が、かすかに見開かれた。
ザガンは弱さを知っていた。
知った上で、それでも仕えた。
二十年前の悔恨を抱えながら、今度こそ──主を一人にしないために。
その事実が、大広間の空気を微かに変えた。完全には変えられない。だが──亀裂が入った絶望の壁に、一筋の光が差したような。
だが──それで全てが解決するわけではなかった。
グリゼルダが唇を引き結んでいた。武人の矜持が揺れている。自分の目が節穴だったという事実は、ザガンの告白では癒えない。ザガンの事情と自分の事情は別だ。
フェリクスは再び黙り込んだ。分析を一から組み直しているのだろう。その顔には困惑と、何か別のもの──怒りではなく、もっと複雑な感情が浮かんでいた。自分自身への失望かもしれなかった。
ミラベルは泣き止んでいなかった。だが涙を拭おうともせず、じっとヴァルゼンを見つめている。帽子の縁から覗くその瞳には──何かが。
ヴァルゼンは目をそらした。ミラベルの目を正面から見る勇気がなかった。
そして、エルヴィン。
エルヴィンだけが、まだ動かなかった。
ヴァルゼンの前に立ったまま、腕を組んだまま。碧い瞳が何かを見つめている。ヴァルゼンを──いや、もっと遠くの何かを。
彼にしては珍しく、考えている。
あのエルヴィンが、考えている。
いつもなら即答する男が。考える前に動く男が。脳と口の間に検閲機関が存在しないはずの男が。
何を考えているのか。
ヴァルゼンには読み取れなかった。
怒っているのか。失望しているのか。それとも──。
大広間の沈黙が、続いた。
光源石の光が揺れている。セラフィオンの翼が微かに明滅している。
ヴァルゼンは膝をついたまま、エルヴィンを見上げていた。
答えはまだ、来ない。




