それは鏡と呼ぶには大きすぎた。
それは鏡と呼ぶには大きすぎた。
大広間の天井に届くほどの光の壁面が、空中に浮かんでいる。表面は水面のように揺らめき、まだ何も映してはいなかった。だがその内側に莫大な魔力が渦巻いていることは、ヴァルゼンの感知能力でも明らかだった。
いや、明らかというレベルではない。あまりにも巨大な魔力の塊が眼前にある。人間が太陽を直視できないように、この魔力を正面から感知するのは本能的に恐ろしかった。
嫌な予感がする。
嫌な予感しかしない。
嫌な予感以外のものが存在しない。
「これは……」
フェリクスがモノクルの位置を直しながら、鏡の表面を分析するように見つめていた。賢者の瞳が知的好奇心で輝いている。こういうとき、フェリクスは周囲の空気を読まない。学究の徒としての本能が勝るのだ。
「神使の権能ですか。記憶投影の類かと推察しますが、術式構造が見たことのない体系です。解析したい」
「近い」
セラフィオンが答えた。
「これは神々の鏡。対象の過去を、ありのままに映し出す。嘘も誇張も、自己弁護すらも通じぬ。真実だけが映る」
ヴァルゼンの血の気が引いた。
足先から順番に、体温が失われていくような感覚だった。
過去を。ありのままに。
それは──つまり──。
逃げていた場面も。怯えていた場面も。腰を抜かしていた場面も。ゴブリンに舐められていた場面も。全部。全部映るということだ。
「やめてくれ」
声が出ていた。自分でも驚くほど切実な声だった。大広間に反響して、情けないほど震えて聞こえた。
「セラフィオン、やめてくれ。頼むから」
パーティメンバーが一斉にヴァルゼンを見た。
ヴァルゼンの顔は蒼白だった。額に汗が滲み、唇が震えている。普段の「怯え」とは質が違った。これは恐怖ではなく──拒絶だった。見せたくない。知られたくない。これだけは。
エルヴィンが即座に前に出た。聖剣の柄に手がかかっている。
「過去を見せることに何の意味がある!」
勇者の声が大広間に轟いた。光源石が震えた。
「ヴァルゼンの強さは今ここにある! 過去がどうだったかなんて関係ない! 俺たちはヴァルゼンの今を見てきたんだ! ──お前が神使だろうが何だろうが、仲間を苦しめるなら俺は黙っていないぞ!」
的外れだが、熱かった。
ヴァルゼンは泣きそうになった。エルヴィン、お前は本当にいい奴だ。だが問題はそこじゃない。過去を見せられたら、「今の強さ」も全部虚構だと証明されてしまうのだ。
グリゼルダも一歩前に出ていた。剣に手をかけてはいないが、構えはいつでも抜ける位置だ。
「神使殿。ヴァルゼン殿が拒否しているのだ。それでもなお強行するのか」
「勇者エルヴィン。女騎士グリゼルダ」
セラフィオンの声は揺るがなかった。三対の翼が静かに畳まれ、金色の瞳だけがヴァルゼンを見ている。
「これは試練の最後の段階だ。しかし──強制はしない。魔王自身の意志で拒否することができる」
セラフィオンの視線がヴァルゼンに戻った。
「拒否するか、魔王ヴァルゼン。この鏡を」
拒否する。もちろん拒否する。全力で拒否する。
そう叫びたかった。叫んで、逃げて、この遺跡から走り去って、どこか安全な場所で膝を抱えていたかった。
だが──セラフィオンの瞳の中に、あの真剣さが見えた。
この鏡が映す真実を見て、何かを判断しようとしている。虚淵が世界を蝕む中で、魔王の器が本物かどうかを。世界の命運にかかわる判断を。
ここで逃げたら。
虚淵の解決は、遠のくのだろうか。
世界を救う手がかりが、失われるのだろうか。
自分一人の恥より、世界の方が大事だ。
……たぶん。いや、間違いなく。
わかっている。頭では。
ヴァルゼンの拳がぎゅっと握り締められた。爪が掌に食い込む。
「……拒否、しません」
声は震えていた。膝も震えていた。何なら全身が震えていた。しかし言葉だけは、はっきりと。
「え、ヴァルゼン……」
ミラベルの不安そうな声が聞こえた。帽子の縁から覗く翡翠の瞳が揺れている。
「大丈夫です。たぶん。……いや、大丈夫じゃないかもしれませんけど」
全然大丈夫じゃなかった。
だが、逃げるわけにはいかなかった。逃げたいけれど。心底逃げたいけれど。
セラフィオンが微かにうなずいた。
翼が広がり、鏡に向かって手をかざす。金色の瞳の紋様が加速した。
「では──映せ」
鏡の表面が波打った。
水面のような揺らめきが収束し、一つの映像を結び始める。
最初に見えたのは、薄暗い城の一室だった。
壊れかけた玉座。ひび割れた床。あちこちに散乱するゴミ。蜘蛛の巣が天井の隅に張っている。かつて威厳を誇ったであろう魔王の間は、荒廃の極みにあった。
そして──その部屋の隅で膝を抱えて座っている、痩せた銀髪の少年。
ヴァルゼンは目を閉じたくなった。
十五歳の自分だ。魔王の玉座に座ることもできず、配下のゴブリンたちに居場所を追い出され、城の片隅で震えていた頃の自分。
「あ……」
ミラベルが小さく声を漏らした。
映像の中で、少年の前をゴブリンの群れが通り過ぎていく。一匹が少年を見て、鼻で笑った。黄色い歯を剥き出しにして、嘲るように。
少年はさらに小さく身を縮めた。壁に背をつけ、膝を胸まで引き上げて、自分を消そうとするかのように。
大広間に沈黙が降りた。
全員の目が鏡に釘付けになっている。
映像は続いていた。ゴブリンたちが少年──魔王ヴァルゼンの食事を横取りし、命令を無視し、挙句の果てに「おい、魔王のくせに邪魔だぞ」と玉座の間から追い出す場面が映し出される。
少年は何も言い返せなかった。俯いたまま、城の廊下をとぼとぼと歩いていく。裸足だった。靴すら取り上げられていたのだ。
これが、魔王だった。
これが、「史上最凶の魔王」の真実だった。
ヴァルゼンは奥歯を噛み締めた。
映像はまだ序の口だ。これから先、もっと──もっと見せたくないものが山のようにある。
鏡の映像が次の場面に移り変わろうとしていた。




