十日目の朝。
十日目の朝。
連合軍の幹部会議に、フェリクスの分析結果が報告された。
テントの中に全員が揃っていた。エルヴィン、グリゼルダ、フェリクス、ミラベル、ザガン、ベリオス。そして各種族の指揮官たち。十日間の戦いを共にした者たちの顔には、疲労と、だが同時に奇妙な連帯感が浮かんでいた。
ヴァルゼンは中央に座っていた。十日間の戦闘で、彼の顔は明らかにやつれていたが、淡い紫の瞳には以前にはなかった光が宿っていた。それは自信ではない。覚悟に近い何かだった。
「報告します」
フェリクスが立ち上がった。手帳ではなく、大きな羊皮紙に分析結果をまとめた図が広げられた。脈点の位置、虚淵の分布、魔力循環の流れ——全てが一枚の図に凝縮されている。
「九日間の戦闘データと先代魔王の記録を照合した結果、以下の結論に至りました」
テント内が静まり返った。外では前線の戦闘音が続いているが、この場の誰もそれを気にしていなかった。
「第一。虚淵は外敵ではなく、世界の魔力循環が崩壊した結果生じる消滅現象です。いわば、世界の病の症状」
「第二。大戦で破壊された脈点が原因で魔力循環が途絶え、それが虚淵の発生源となっています。連合軍が今行っている作戦は、症状の抑制であり、根本治療ではありません」
指揮官たちの表情が硬くなった。だが誰も反論しなかった。十日間戦い続けて、虚淵が終わらないことは全員が肌で感じていた。押し返しても戻ってくる。斬っても湧いてくる。それが「症状」だと言われれば、納得がいく。
「第三。根本的な解決には、世界の魔力循環の再起動が必要です」
再起動。
二日前に初めて出た言葉が、今日、全軍に共有された。
「再起動とは、具体的には何をするのですか」
精霊の長老が問うた。
「壊れた脈点を修復し、途切れた魔力の流れを繋ぎ直す。世界の血管を繋ぎ、もう一度血を巡らせる——そういう作業です。大戦で壊された世界の仕組みを、元に戻す」
「誰がそれを行うのですか」
騎士団長の問いに、フェリクスは一瞬だけ間を置いた。
そして、全員を見渡してから言った。
「魔力循環の再起動ができるのは——魔王だけです」
テントの中が、一瞬にして凍りついた。
全員の視線がヴァルゼンに向いた。人間の騎士も、魔族の戦士も、精霊の長老も。全ての瞳が、一人の魔王を見つめている。
「魔王の力は、世界の魔力循環と共鳴する唯一の力です。先代魔王がそうであったように、魔力循環に干渉し、調整し、修復できるのは魔王の血統だけ。——ヴァルゼン殿の魔力感知が世界の状態を正確に把握できるのも、その共鳴の一端です」
フェリクスの説明を、全員が黙って聞いていた。
「つまり」
エルヴィンが口を開いた。真剣な表情だった。碧い瞳から、普段の楽天さが完全に消えている。
「ヴァルゼンが世界を治す。——そういうことだな」
「端的に言えば、そうです」
「当然ですね」
グリゼルダが言った。まるで天気の話でもするかのように自然に。
「ヴァルゼン様にしかできないことがあるなら、ヴァルゼン様がやればいい。我々はそのために剣を振るう。それだけのことです」
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが瞳を潤ませた。だが今回は泣かなかった。代わりに、静かな決意を滲ませて言った。
「あなたの体は、私が守ります。どんな負担がかかっても、癒し続けます。それが私の役目です」
「陛下」
ザガンが深々と頭を下げた。尾が静かに、だが確かに揺れている。感動の揺れだった。
「先代が託した使命が、ようやく形を成しました。陛下ならば——必ず成し遂げられます」
全員が、ヴァルゼンを見ている。
「当然ですね」という空気が、テント全体を満たしている。
ヴァルゼンの内心では、嵐が吹き荒れていた。
い、いや、ちょっと待って。
僕にできるの、それ?
世界の魔力循環を再起動って、そんな大それたこと、僕なんかに——先代ですら一人では成し遂げられなかったことを、僕に? 戦闘力がゴブリン以下の僕に?
だが口からは、別の言葉が出た。
「……方法は、まだ完全にはわかっていない」
正直に言った。虚勢を張る余裕はなかった。嘘をつく技術もなかった。
「先代の記録にも、具体的な手順は残されていなかった。手がかりはあるけど、答えにはなっていない」
全員が黙って聞いている。ヴァルゼンの正直さを、誰も咎めなかった。
「でも——」
ヴァルゼンは一つ、深く息を吸った。
「見つけます。方法を。みんなが前線で時間を稼いでくれている間に、必ず」
声が震えた。情けない声だった。魔王の威厳など欠片もない声だった。
だが——その声を聞いた全員が、安堵の表情を浮かべた。
この魔王は嘘をつかない。
「できる」とは言わない。「見つける」と言う。
「わからない」と正直に言って、それでも「やる」と約束する。
その誠実さを、十日間の戦いを通じて全員が知っていた。
「ならば」
ベリオスが立ち上がった。老将の目に、若者のような炎が宿っていた。
「我ら連合軍は、魔王殿が答えを見つけるまで、この防衛線を一歩も退かぬ」
「同意する」
騎士団長が剣を抜いた。刃がランプの光を反射した。
「我々もだ」
精霊の長老が頷いた。透明な翼が光を放った。
エルヴィンが、最後に立ち上がった。
「ヴァルゼン」
勇者の碧い瞳が、太陽のように輝いていた。十日間の疲労を吹き飛ばすような、あの眩しい笑顔。
「お前が世界を治す方法を見つける。俺たちはお前の盾になる。——いつも通りだ」
いつも通り。
その言葉が、不思議と胸に沁みた。
いつも通りだ。
ヴァルゼンが困っていて、みんなが助けてくれて、なぜか何とかなる。今までずっと、そうだった。
「……うん。いつも通りだ」
ヴァルゼンは小さく笑った。
テントの中に、静かな決意が満ちた。
連合作戦はまだ続く。だがその目的が変わった。虚淵を「倒す」戦いから、世界を「治す」時間を稼ぐ戦いへ。
そしてその「治す」役目を担うのは、大陸最弱の魔王。
フェリクスがテントの出口で振り返り、最後に付け加えた。
「再起動の方法を見つける鍵は、先代の記録のどこかに眠っているはず。——そしてもう一つ」
「もう一つ?」
「エルヴィン殿の聖剣が虚淵に特異な反応を示したこと。あれも、何らかの手がかりになる可能性があります。虚淵の振動パターンと逆位相の光——存在を肯定する力。あれが再起動の触媒になるかもしれない」
エルヴィンの聖剣。
あの金色の光。
虚淵が怯えた、あの瞬間。
ヴァルゼンの記憶に、その光景が蘇った。まだ繋がらないピースだ。だがいつか——きっと繋がる。
テントの幕が風に揺れ、外の光が差し込んだ。
戦場の遠くで、虚淵の黒い霧が脈動している。
その向こうに、答えがある。
魔力循環の再起動。
魔王にしかできないこと。
最弱の魔王は、拳を握った。震えていたが、握りしめた。
——やるしかない。みんなが信じてくれている。だから、やるしかない。
その決意は、まだ頼りなかった。だが確かに、そこにあった。




