先代魔王の記録を紐解いたのは、戦闘の七日目の夜だった。
先代魔王の記録を紐解いたのは、戦闘の七日目の夜だった。
前線はフェリクスの指揮とヴァルゼンの短時間の感知指示で何とか維持していた。ヴァルゼンは体力の配分を覚え始めていた。六時間感知して二時間休む。そのリズムが最も効率的だとフェリクスが計算し、ヴァルゼンもそれに従うようになっていた。最初の四日間のように限界まで酷使するのではなく、持続可能なペースで力を使う。それもまた、一つの学びだった。
休憩時間の一つを使って、ヴァルゼンはザガンとフェリクスと共に、先代の記録を読んでいた。
魔族の古都から急送された記録は、古い革装丁の書物だった。先代魔王ゼルヴァスの晩年の手記。表紙の革は色褪せ、角が擦り切れている。ザガンですら読んだことのない、最後の時期の記録だった。
「先代の記録は、大半が魔力循環の管理に関する技術的な記述です」
ザガンが書物のページを丁寧にめくりながら言った。指先が微かに震えている。四百年仕えた主の最後の言葉に触れているのだ。
「脈点の定期点検、循環の微調整、魔力の偏りの補正——先代はこれらを日常的にこなしていました。一人で」
一人で。
その言葉の重みを、ヴァルゼンは改めて感じた。先代は世界の管理という途方もない重責を、たった一人で背負い続けた。助けを求めることもなく、弱音を吐くこともなく。
「ここです」
フェリクスが身を乗り出した。ザガンがめくったページの一節を指差す。
古い魔族語で書かれた記述。文字は整然としているが、後半になるにつれて筆圧が弱くなっている。書き手の衰弱が、文字ににじんでいた。ザガンが読み上げた。
「『脈点の損傷が進んでいる。大戦による破壊が原因だ。修復を試みたが、私の力では追いつかない。循環の均衡を維持するだけで、全魔力を消費している。このままでは——世界の魔力循環が止まる』」
沈黙が落ちた。ランプの炎が揺れた。
「先代は……知っていたんだ」
ヴァルゼンの声が震えた。
「世界がこうなることを。虚淵が広がることを。自分が倒れた後に何が起きるかを、予見していた」
「さらに続きがあります」
ザガンが次のページをめくった。老臣の声も、わずかに揺れていた。
「『私の後継者に託す。循環の再起動が必要だ。だが再起動には条件がある。魔王の力だけでは足りない。世界の全ての種族の力を束ねなければ——』」
そこで記述が途切れていた。文字がかすれ、最後の数行は読み取れなかった。インクが滲み、紙に染みが広がっている。
「ここで先代の筆が止まっている。おそらく、この直後に倒れたのでしょう」
ザガンの声が低く沈んだ。尾が力なく垂れている。
「先代がこの事態を予見していた……」
フェリクスが手帳に書き込みながら呟いた。
「そして、次の魔王に解決を託していた。——ザガン殿。先代がヴァルゼン殿を後継に指名したのは、偶然ではなかったのでは?」
ザガンの琥珀色の瞳が、ヴァルゼンを見つめた。そこにはかつてないほど深い感情が宿っていた。
「……以前から申し上げている通り、先代は陛下を指名しました。血が薄い傍系の、戦闘力を持たない陛下を。——当時、誰もがその判断を疑いました。私を含めて」
ザガンが一拍置いた。
「しかし今なら、わかります。先代が必要としていたのは、強い後継者ではなかった。世界の全ての種族を束ねられる後継者だった。そしてそれは——」
「力で支配する王ではなく、力なき故に人を繋げる王」
フェリクスが続けた。
「先代が次の魔王に託した。——この物語は、美しすぎますね」
「フェリクス」
「皮肉ではありません。事実の分析です。先代の記録と現状を照合すれば、ヴァルゼン殿が魔王位を継いだ経緯には、偶然では説明しきれない整合性がある。先代は、あなたの資質を知っていたのかもしれない」
ヴァルゼンは黙って手記の最後のページを見つめていた。
かすれた文字。読み取れない最後の数行。先代がどんな思いでこの言葉を書いたのか。世界の崩壊を予見しながら、自分の力ではどうにもならないと知りながら、それでも次の世代に希望を託した。その孤独を思うと、胸が痛んだ。
「先代の記録で、もう一つ重要な記述があります」
ザガンが別のページを開いた。
「『脈点の損傷時期と、虚淵の発生時期は一致している。大戦で最も激しい戦闘が行われた東方戦線——そこが最初に壊れた。そしてそこが、最初の虚淵になった』」
「東方戦線……」
ヴァルゼンの魔力感知が反応した。虚淵の最も大きな発生源は、確かに大陸東部にあった。大戦の主戦場だった場所。人間と魔族が最も激しく殺し合った土地。その戦いの傷が、世界そのものに刻まれていた。
パズルのピースが、少しずつ揃い始めている。
虚淵は大戦で壊れた脈点から発生している。
脈点の修復には魔力循環の再起動が必要。
再起動には全種族の力が必要。
そして先代はそれを、次の魔王に託した。
だが——肝心の「解法」が、まだ見えない。
「再起動の方法が書かれていない」
フェリクスが手帳のペンを止めた。
「先代の記録はここで途切れている。再起動が必要だとはわかっていたが、具体的な方法を記す前に倒れた。あるいは——」
「あるいは」
ザガンが目を細めた。
「先代自身も、方法を知らなかったのかもしれません。『必要だ』とはわかっていた。だが具体的にどうすればいいかは、次の世代の魔王が——陛下が見つけるべき課題として、託されたのかもしれません」
託された。
先代から、自分へ。
ヴァルゼンは手記を閉じた。
「……重いな」
呟きは、正直すぎるほど正直だった。
「重いですが」
ザガンが静かに言った。
「陛下の傍には、先代にはなかったものがあります」
「何?」
「仲間です」
ザガンの言葉に、フェリクスが珍しく無言で頷いた。
テントの外から、エルヴィンの笑い声と兵士たちの喧騒が聞こえてくる。
先代は一人で全てを背負った。
ヴァルゼンには——仲間がいる。
それだけが、かすかな光だった。




