ヴァルゼンが目を覚ましたのは、約束の一時間をわずかに超えた頃だった。
ヴァルゼンが目を覚ましたのは、約束の一時間をわずかに超えた頃だった。
横になったまま目を開けると、夕暮れの空が見えた。雲の隙間から橙色の光が差し込んでいる。ミラベルの回復魔法の残り香が体を包んでおり、六日間の疲労が嘘のように軽くなっていた。完全に回復したわけではないが、少なくとも体が動く。頭も、以前の鮮明さを取り戻しつつあった。
「お目覚めですか、陛下」
ザガンが傍に控えていた。一時間の間、一歩も離れなかったのだろう。水と携行食を差し出される。ヴァルゼンは起き上がり、ぼんやりとした頭で水を飲んだ。冷たい水が喉を通ると、意識がくっきりと戻ってきた。
「前線は……」
「フェリクス殿が指揮を代行し、問題なく凌いでおります。虚淵の活動が一時的に低下する時間帯に入ったこともあり、被害は軽微です」
「そっか……よかった」
安堵の息を吐く。一時間の仮眠で体は回復したが、根本的な問題は何も解決していない。前線はまだ戦っている。虚淵はまだ広がっている。そしてこの戦いに、終わりは見えない。
「魔王殿。ちょうどいいところに目が覚めましたね」
フェリクスが手帳を抱えて近づいてきた。その目が、いつもの冷静な分析家ではなく、発見に興奮する学者の目になっていた。モノクルが通常より強く発光しているのは、解析を酷使した証だ。
「何かわかったの?」
「仮説の段階ですが——見ていただきたいものがあります」
フェリクスが手帳を広げた。六日間の戦闘で収集した虚淵のデータが、グラフと数式でびっしりと書き込まれている。ヴァルゼンには数式は読めないが、グラフの波形は理解できた。
「虚淵の拡大には周期性があります。この周期は——」
フェリクスの指が、グラフの山と谷をなぞった。
「世界の魔力循環の脈動と完全に一致しています」
「脈動……」
「はい。世界には心臓の鼓動のような、魔力の満ち引きがあるのです。地中の魔力源から脈点を通じて地上に湧き出す魔力の流れ。そしてそこから大気に巡り、再び地中に還る流れ。この大きなサイクルに、呼吸のようなリズムがある」
ヴァルゼンの魔力感知が、フェリクスの言葉を裏付けた。目を閉じれば確かに感じる。世界の魔力には波がある。大きくゆっくりとした波が、地中深くから大気へ、大気から地中へと巡っている。
その波が——乱れている。
「フェリクス。世界の魔力の流れが……おかしい」
「おかしい、とは」
「うまく言えないけど……途切れている場所がある。川で言えば、岩が落ちて流れが堰き止められているような。そこから先に魔力が行かなくなっていて、そこが——」
「虚淵の発生源」
フェリクスが即座に補完した。
「やはりそうですか。僕のデータとも合致します。虚淵は外部の敵ではない。世界の魔力循環そのものの崩壊現象です」
ヴァルゼンは目を開けた。
「世界が……壊れている」
その言葉は、ヴァルゼン自身が驚くほど自然に出てきた。
魔力感知を通じて感じ取っているのは、まさにそれだった。世界の血管が詰まり、血の巡りが悪くなっている。虚淵はその壊死した組織のようなものだ。血が届かなくなった場所から、ゆっくりと死んでいく。
「世界が壊れている……」
ザガンが目を見開いた。四百年を生きた老臣の顔に、驚きと——どこか腑に落ちたような表情が浮かんだ。
「陛下。今、何と——」
「世界の心臓の鼓動を聴く者……」
背後で、使者の一人が震える声で呟いた。いつの間にか、丘の上に複数の観戦武官が集まっていた。ヴァルゼンの目覚めを待っていたのだ。
「違う、そういうカッコいい話じゃなくて——」
ヴァルゼンが慌てて手を振ったが、もう遅かった。使者たちの目は畏敬に満ちていた。万策の魔王に続く新たな称号が、彼らの脳内で形成されつつあるのが見えるようだった。
「世界の鼓動を聴き、世界の病を診る。——まさに、世界の医者ではありませんか」
世界の医者。
また変な称号が生まれようとしている。勘弁してほしい。
「フェリクス、助けて」
「お気持ちはわかりますが、事実として間違ってはいないので助けようがありません」
役に立たない賢者だった。
「それより魔王殿」
フェリクスの声が真剣になった。遊びの時間は終わりだ、という顔だった。
「世界の魔力循環が崩壊しているなら、虚淵を『倒す』ことでは解決しません」
「うん……わかってる」
「問題は、崩壊の原因と修復の方法です。虚淵が魔力循環の崩壊で発生しているなら、循環を元に戻せば虚淵も消えるはず。——ですが」
フェリクスが手帳を閉じた。
「魔力循環を修復する方法が、現時点ではわかりません。これは既存の魔法理論の範疇にない問題です。学院の文献にも、修復の手がかりは断片的にしか残っていない」
敵を「倒す」ことでは解決しない。
では、何を「治す」べきなのか。
「脈点……」
ヴァルゼンが呟いた。
「魔力の流れが途切れている場所。そこにある脈点が壊れているんだと思う。脈点を直せば——」
「流れが戻る可能性はあります。ですが脈点の修復技術は、僕の知る限り失われた古代技術です。文献にも断片的にしか残っていない」
「先代の記録に、何かあるかもしれない」
ザガンが口を開いた。老臣の琥珀色の瞳が、鋭い光を帯びていた。尾が緊張で静止している。
「先代は魔力循環の管理者でした。脈点の修復についても、何らかの知見を残しているはずです。先代の晩年の記録には、まだ調べていない部分がある」
「ザガン、先代の記録はどこに——」
「魔族の古都の記録保管庫に、まだ調べていない区画があります。先代の最後の時期の記録が、そこに封印されている」
手がかりは、先代魔王の記録の中にある。
ヴァルゼンは丘の上から戦場を見渡した。連合軍はまだ防衛線を維持している。だがこの防衛は永遠には続かない。時間には限りがある。
「フェリクス」
「はい」
「虚淵を抑えている間に、治す方法を見つけないと」
「同意します。時間はあまりありませんが——手がかりはある」
フェリクスが薄く笑った。
「世界の病を感じ取れる魔王殿がいて、先代の記録があって、分析できる僕がいる。条件は揃いつつあります」
条件は揃いつつある。
だが答えはまだ見えない。
丘の下では、連合軍が今日も虚淵と戦っていた。
その戦いが対症療法に過ぎないことを、まだほとんどの者は知らない。




