祝宴の翌日から、連合作戦は消耗戦の様相を呈し始めた。
祝宴の翌日から、連合作戦は消耗戦の様相を呈し始めた。
押し返した虚淵は、ヴァルゼンの予感通り再び膨張を始めていた。しかも前回より速い。一日で、四日間の戦果の半分を取り戻される勢いだった。潮が引いた後に来る波は、前の波より大きい。海を知る者なら当然の知識だが、虚淵が同じ法則に従うとは誰も予想していなかった。
「拡大速度が上がっている……」
丘の上で目を閉じたヴァルゼンが、苦い声を漏らした。
前線では連合軍が再び交戦していた。エルヴィンの聖剣が光り、グリゼルダの大剣が唸り、魔戦士団が隊列を組んで歪みの怪物を迎え撃つ。昨日と同じ戦い。一昨日と同じ戦い。だが兵士たちの表情に、昨日までの勢いはなかった。
勝利の翌日に再び同じ敵が現れる。昨日押し返したはずの虚淵が、今日はもう戻ってきている。その事実が、兵士たちの心を削っていた。
「右翼、三秒後に大型。——いや、待って、中型が先に来る。二体。その後ろに大型」
ヴァルゼンの指示は変わらず的確だった。だが声に力がなくなっていた。四日間の連続感知の疲労は、一晩の休息で回復するものではなかった。
五日目。
虚淵の拡大は鈍化したが、止まっていない。連合軍は防衛線を維持するのが精一杯で、押し返す余力がなくなっていた。交代要員は一巡してしまい、最初に戦った兵士が再び前線に立っている。
「交代要員が足りません」
フェリクスが戦況報告をまとめながら言った。モノクルの奥に疲労の色が浮かんでいるのは珍しいことだった。
「精霊の結界術士の三割が魔力切れで離脱。人間の騎士団も負傷率が二割を超えました。魔戦士団は比較的元気ですが、このペースでは三日以内に限界を迎えます」
三日以内。
猶予はあとわずかだった。
六日目。
ヴァルゼンが倒れた。
前触れはあった。声がかすれ、指示の間隔が長くなり、時折黙り込むようになっていた。フェリクスは気づいていたし、ザガンも気づいていた。だが二人とも、ヴァルゼンが自分から休むとは思えなかった。この魔王は、仲間が戦っている限り自分だけ休もうとはしない。それは美徳であり、同時に欠点でもあった。
倒れたのは、午後の三時頃だった。
歪みの怪物の新しい波を感知し、前線に指示を出した直後。声が途切れ、そのまま横に倒れた。体が傾き、支えるものがなく、地面に頬がついた。
「陛下!」
ザガンが即座に支えた。ヴァルゼンの顔は蒼白で、呼吸が浅い。意識はあるが、体が動かなかった。精神が肉体より先に限界を迎えていた。
「む、無理です、ザガン……もうちょっと、だけ……」
「なりません。今すぐ休んでいただきます」
「でも、前線が——」
「前線は我々が何とかします」
フェリクスの声が割り込んだ。
「魔王殿。あなたが倒れたら、前線は指針を失います。一時間の休憩で回復するなら、今休むのが最適解です。数学的にも」
数学的に。
フェリクスが数学を持ち出す時は、反論の余地がない。感情論なら抵抗できるが、数学には勝てない。
「ヴァルゼン様!」
前線から駆けつけたミラベルが、息を切らしながら丘を登ってきた。ヴァルゼンが倒れたと聞いて、回復魔法の準備をしながら全力で走ってきたのだ。帽子が風に飛ばされかけていたが、構わなかった。
「大丈夫ですか!? お体は——」
ミラベルの手が光を帯び、ヴァルゼンを包んだ。暖かい光。聖都仕込みの最上位の回復魔法が、消耗した精神と肉体をゆっくりと癒していく。氷のように冷えた体に、じわじわと熱が戻ってくる。
「ヴァルゼンさん、無理しないでください……」
ミラベルの目には涙が浮かんでいた。だが声は毅然としていた。
「あなたが世界の痛みを一身に受けているのは、みんなわかっています。だから——」
「痛みを受けてるわけじゃ……」
「わかっています」
ミラベルが優しく、だが毅然と言った。
「あなたは否定するでしょう。『大したことはしていない』と言うでしょう。でも私は知っています。あなたの魔力感知は、仲間の傷まで感じ取ってしまう。六日間、ずっとそれに耐えていたんです」
……バレていた。
ミラベルの共感は時として的外れだが、今回は正確だった。ヴァルゼンは仲間の傷を感知するたびに胸が痛んでいたし、それが蓄積して倒れた面もあった。隠していたつもりだったが、この僧侶の目は誤魔化せなかった。
「一時間だけ」
ヴァルゼンは観念して横になった。地面は硬かったが、ザガンが外套を折って枕にしてくれた。
「一時間だけ寝る。その間——」
「僕が代わりに観測器で戦場を監視します。三秒予測は無理ですが、大まかな動きは把握できます」
フェリクスが手を挙げた。
「陛下のいない一時間を、凌いでみせましょう」
ザガンが頷いた。
ヴァルゼンは目を閉じた。魔力感知を意識的に絞り込み、世界の情報を遮断する。
静かだった。
六日間で初めての、静寂。
仲間の声も、虚淵の脈動も、兵士たちの怒号も聞こえない。ただミラベルの回復魔法の暖かさだけが、体を包んでいた。繭の中にいるようだ。暖かくて、安全で、何も考えなくていい場所。
「……ありがとう、ミラベル」
半ば眠りに落ちながら、ヴァルゼンは呟いた。
「お礼なんて。これが私の仕事ですから」
ミラベルの声が柔らかく微笑んだ。
「——あなたが寝ている間は、私があなたを守ります」
その言葉を最後に、ヴァルゼンの意識は闇に沈んだ。
一方、丘の下ではフェリクスの分析結果が出始めていた。
虚淵のパターンに、法則がある。
フェリクスの観測器が捉えたデータは、虚淵の拡大が完全にランダムではないことを示していた。脈動にリズムがある。潮の満ち引きのような周期性がある。そしてその周期は——
「これは……」
フェリクスの目がモノクルの奥で見開かれた。
「世界の——脈拍だ」
手帳にペンを走らせながら、フェリクスは呟いた。
「虚淵の動きは、世界の魔力循環そのものの脈拍と連動している。ということは——」
仮説の輪郭が、少しずつ見え始めていた。




