戦闘の四日目、午後。
戦闘の四日目、午後。
連合軍が虚淵を押し返した。
きっかけはエルヴィンだった。三日間の戦闘で虚淵の歪みの怪物のパターンを体で覚えた勇者は、ヴァルゼンの三秒予測と完全に同期して動くようになっていた。ヴァルゼンが「右」と言えば右に跳び、「三歩前」と言えば三歩前に出る。まるで一つの生き物のように、司令官と前線が連動していた。言葉を交わす前に体が動く。それほどまでに、二人の呼吸は合っていた。
そしてエルヴィンの聖剣が再び金色に光った。
今度は一瞬ではなかった。数秒間、金色の光が持続し、聖剣を振るうたびに虚淵の裂け目が閉じていった。一太刀ごとに空間の歪みが修復される。まるで傷口を縫い合わせるように、聖剣の軌跡が世界を繋ぎ直していく。
「押してるぞ! 虚淵が後退している!」
前線から歓声が上がった。
グリゼルダの大剣が怪物の群れを薙ぎ払い、ベリオスの魔戦士団が残敵を掃討する。精霊の結界術士たちが、虚淵が後退した区域に即座に結界を張った。透明な魔力の膜が、回復した空間を保護するように覆っていく。
「全軍前進! 虚淵を押し込め!」
ヴァルゼンの指示が飛んだ。声はかすれていたが、明確だった。四日間の疲労が声に滲んでいたが、指示の精度は揺るがない。
魔力感知が捉えている。虚淵の動きが鈍くなっている。三日間の連続攻撃で、歪みの怪物の出現が減少している。今が好機だ。迷っている余裕はない。
連合軍が一丸となって前進した。
エルヴィンの聖剣が光る。グリゼルダの大剣が唸る。魔戦士たちの魔力が閃く。騎士団の槍が並ぶ。結界が広がる。三つの種族が、一つの意志で動いている。かつて敵同士だった者たちが、今は同じ方向を向いて走っている。
一時間後。
虚淵の最前線が、三日前の位置から大きく後退していた。歪みの怪物の出現が止まり、黒い霧が薄れ、空間が正常な色を取り戻していく。
「——勝った」
誰かが呟いた。
次の瞬間、前線全体に歓声が爆発した。
「やったぞ! 虚淵を押し返した!」
「連合軍の勝利だ!」
剣を掲げる者、抱き合う者、膝から崩れ落ちる者。三日間の緊張と恐怖から解放された兵士たちの喜びが、戦場を満たした。人間の騎士と魔族の戦士が握手を交わし、精霊の術士が涙を流している。
「魔王万歳!」
その声が上がったのは、人間の騎士団からだった。かつて魔王を敵と見なしていた者たちが、今は魔王を讃えている。
「魔王万歳! 万策の魔王に栄光を!」
魔族の魔戦士団からも声が上がった。
「魔王に、感謝を!」
精霊の術士たちが、透明な魔力の光を空に放った。祝福の灯火が夕空に舞い上がる。無数の光の粒子が風に乗って広がり、戦場全体が淡い輝きに包まれた。
種族を超えた歓声が、戦場に響いた。
丘の上で、ヴァルゼンはようやく目を開けた。
四日ぶりに見る世界は、眩しかった。夕日が戦場を金色に染めている。彼方まで広がる連合軍の陣地。翻る各国の旗。空に舞う祝福の光。
そしてその全てが、「魔王万歳」を叫んでいた。
「陛下。勝利です」
ザガンが隣で一礼した。老臣の顔に、かすかな笑みが浮かんでいた。ザガンが笑う姿は珍しい。四百年を生きた魔族も、この瞬間には感情を隠しきれなかったようだ。
「……勝ったの?」
声がかすれすぎて、自分でも聞き取れなかった。
「はい。虚淵を大幅に押し返しました。この四日間の作戦は、大陸史上に残る戦果です」
ヴァルゼンは呆然と戦場を見下ろした。
俺は何もしてないんだけど。
指差しただけで。嫌な感じを叫んだだけで。
「ヴァルゼン!」
丘を駆け上がってきたのはエルヴィンだった。鎧は傷だらけで、金髪は砂埃にまみれていたが、碧い瞳は太陽のように輝いていた。
「やったぞ! お前の指揮のおかげだ!」
エルヴィンが両腕を広げて突進してきた。ヴァルゼンは避ける体力がなかった。勇者の豪快な抱擁に、骨が軋む音がした。
「い、痛い痛い痛い——」
「おっと、すまん!」
エルヴィンが慌てて離れた。その後ろから、グリゼルダが静かに丘を登ってきた。甲冑にいくつもの戦傷がついている。
「ヴァルゼン様。お見事でした」
グリゼルダが片膝をついた。銀髪が夕日に輝いている。
「あなたの声がなければ、今日の勝利はありえなかった。——前線の兵士は全員、そう思っています」
「ぼ、僕は本当に何もしてないんだけど……指差しただけで……」
「指差しただけで戦争に勝つ。それができるのは、あなただけです」
フェリクスが丘を登りながら言った。モノクルの奥の瞳が、珍しく温かい光を帯びていた。手帳には四日間のデータがびっしりと書き込まれている。
「ヴァルゼン様!」
ミラベルが駆け上がってきた。その翡翠色の瞳はもう涙で一杯だった。
「お疲れ様でした……本当に、本当にお疲れ様でした……!」
ミラベルの回復魔法の光がヴァルゼンを包んだ。四日間の疲労が、ゆっくりと溶けていく。暖かい。ミラベルの魔法は、いつも暖かかった。体だけでなく、心まで温めてくれる。
「……ありがとう、ミラベル」
ヴァルゼンは小さく笑った。
だが——。
ヴァルゼンだけが気づいていた。
虚淵は「押し返された」のではない。
魔力感知が捉えたのは、もっと不穏な感触だった。
虚淵は——引いたのだ。
自ら。
まるで潮が引くように、虚淵は後退した。連合軍の攻撃で後退させられたのではなく、何か別の理由で。
次に押し寄せる波は、今日より大きいかもしれない。
だが今、その不安を口にする気にはなれなかった。みんなが笑っている。みんなが喜んでいる。四日間の恐怖と疲労を乗り越えた仲間たちの笑顔を、今だけは守りたかった。
「……うん。みんな、お疲れ様」
最弱の魔王は、夕日の中で静かに笑った。
胸の奥の不安を、誰にも悟られないように。




