戦闘の三日目。
戦闘の三日目。
ヴァルゼンは限界に近づいていた。
目を閉じている。三日間、ほとんど閉じたままだ。短い仮眠を取る以外は、魔力感知を展開し続けている。食事は口に運んでもらい、水は隣にいるザガンが定期的に差し出してくれた。体は丘の上に座っているだけだが、精神は休まる暇がない。
世界が魔力の流れとして見える。味方の位置、敵の動き、虚淵の脈動——全てが情報として流れ込んでくる。数千人分の生命の灯が、ヴァルゼンの感覚の中で明滅している。
そしてその中に、仲間の痛みもあった。
「——っ」
ヴァルゼンの唇が震えた。
前線でグリゼルダが負傷した。魔力感知を通じて、彼女の生命力がわずかに揺らいだのを感じた。大きな傷ではない。左腕を浅く切られた程度だ。だが——感じてしまった。灯火がちらりと翳ったような、小さな揺らぎ。それがヴァルゼンの感覚には鋭い痛みとして伝わった。
「グリゼルダ、左腕……大丈夫か」
ヴァルゼンの声が、伝令を通じて前線に届いた。
「ヴァルゼン様、ご心配なく。かすり傷です」
グリゼルダの声は力強かった。あの女騎士は片腕がもげても「かすり傷」と言いかねない人だ。だがヴァルゼンの感知は、彼女が痛みを堪えていることを読み取っていた。筋肉に力を込めて震えを抑えている。それすらも、魔力の微細な変化として伝わってしまう。
「ミラベル、グリゼルダのところに回復を——」
「もう向かっています!」
ミラベルの声が返ってきた。小柄な僧侶は前線と後方を行き来しながら、負傷者を次々と癒していた。つば広の帽子がずれるのも構わず走り回る姿は、戦場では異質だが、誰もがその存在に感謝していた。
回復魔法の光がグリゼルダを包むのを、ヴァルゼンは感知した。暖かい光が傷に染み込み、裂けた肉が修復されていく。傷が塞がる。生命力が安定する。灯火が再び明るさを取り戻す。
——よかった。
安堵の息を吐いた瞬間、別の方向から衝撃。
ベリオスの部隊の魔戦士が一人、歪みの怪物の攻撃を受けた。重傷だ。生命力が急激に低下している。灯火が激しく明滅し、消えかけている。
「ベリオス隊、負傷者搬出! 第三班が援護しろ!」
叫びながら、ヴァルゼンは唇を噛んだ。
感じてしまう。
仲間が傷つくたびに、その痛みが魔力感知を通じて流れ込んでくる。物理的な痛みではない。だが生命力の揺らぎは、ヴァルゼンの感覚に「苦痛」として伝わる。灯火が翳るたびに、胸が締めつけられる。
一人が傷つく。感じる。
また一人。感じる。
さらに一人。
止めたい。全員を守りたい。
だがヴァルゼンにできるのは、三秒先を叫ぶことだけだ。剣を振れない。盾になれない。回復魔法も使えない。叫ぶことしか、できない。
「東の第五班、後退! 三秒後に——」
遅かった。
叫びが間に合わなかった。東の第五班の兵士が一人、歪みの怪物に吹き飛ばされた。生命力が揺らぎ——だが、消えなかった。気絶しただけだ。生きている。だが、間に合わなかったという事実が、ヴァルゼンの胸を抉った。
「——!」
ヴァルゼンの閉じた目から、一筋の涙が流れた。
間に合わなかった。もう少し早く感知できていれば。もう少し声が大きければ。もう少し——自分が強ければ。
後方の監視所で戦況を記録していた書記官が、その光景を目撃した。
「魔王が……泣いている?」
隣にいた観戦武官が、低い声で言った。
「違う。冷徹な判断を己に強いているのだ。あの方は全てを感じ取れる。仲間が傷つくことも、兵士が倒れることも。それを知りながら、最適な指示を出し続けなければならない。——想像できるか、その重圧を」
書記官は言葉を失った。羽ペンを握ったまま、丘の上の魔王を見つめた。
丘の上で、ヴァルゼンは涙を拭う余裕もなく、次の指示を叫んでいた。
「全員聞いてくれ! 虚淵の動きが変わった! 北から大波が来る! 前線は一時後退!」
泣きながら指揮を執る魔王。
その姿は、記録官によって後世に伝えられることになる。——「冷徹にして慈悲深き魔王、涙を流しながらも一人の判断ミスも犯さなかった」と。
実際は、泣きそうだったから声が震えただけだし、判断ミスも何も魔力感知で感じたことを叫んでいるだけなのだが。後世の歴史書は、いつだって実態より格好良く書かれるものだ。
前線では、ミラベルが負傷者の治療を続けていた。
聖都仕込みの回復魔法が、次々と傷を癒していく。小柄な体に似合わぬ胆力で、戦場の最前線近くまで駆けて回復を施す。矢が飛び交う中を走り、怪物が暴れる横を抜け、倒れた兵士の傍に膝をつく。
束の間の休憩で水を飲みながら、ミラベルは丘の方を見上げた。
遠くに、目を閉じて座るヴァルゼンの姿が見えた。金色にかすかに光る瞳。その顔に涙の筋があるのは、この距離では見えない。だがミラベルには、わかった。共感の力は時として目より正確だ。
「ヴァルゼン様……」
ミラベルの翡翠色の瞳が潤んだ。
「あの方も、戦っている」
剣を振るわない戦い。魔法を放たない戦い。
世界の全てを感じ取り、全ての命に責任を負う戦い。
それは前線の誰よりも孤独で、誰よりも過酷な戦いだった。一人きりで、世界の重さを支えている。あの華奢な肩に、数千の命が乗っている。
「……あの方の心を、私が癒さなければ」
ミラベルは立ち上がった。杖を握り直し、次の負傷者のもとへ駆けた。今は、目の前の命を救うことに集中する。そして——戦いが終わったら、あの方のもとへ行く。
後方で一人、前線で一人。
それぞれの場所で、それぞれの戦いが続いていた。
日が暮れ、夜が来て、また朝が来る。
ヴァルゼンは目を閉じたまま、世界を感じ続けた。仲間の痛みを感じ続けた。灯火が翳るたびに胸が痛み、灯火が消えかけるたびに叫んだ。
泣きたかった。逃げたかった。
でも逃げたら、誰かが死ぬ。
だから——最弱の魔王は、泣きながら世界を見守り続けた。




