戦闘が始まって六時間が経過していた。
戦闘が始まって六時間が経過していた。
丘の上に、一人の魔王が座っていた。
目を閉じている。微動だにしない。地面にあぐらをかき、両手を膝の上に置き、まるで瞑想するかのように静止している。風が銀灰色の髪を揺らし、簡素なローブの裾をはためかせる。額の左右にある小さな角が、午後の日差しにかすかに影を落としていた。
その姿だけを見れば、何もしていないように見えた。
だが前線は違う。
眼下の平野では、連合軍と歪みの怪物の激闘が続いていた。剣が閃き、魔法が炸裂し、結界が軋み、怒号と雄叫びが交錯する。血と魔力が飛び散る戦場。そこかしこで爆発が起き、怪物の咆哮が響き、兵士たちの叫び声が途切れない。
そしてその戦場の全てが、丘の上の一人の声に従って動いていた。
「第二隊、三十歩後退。そこで踏みとどまれ」
ヴァルゼンの声は、六時間前より明らかにかすれていた。だが的確さは変わらない。指示を受けた部隊が三十歩退くと、彼らがいた場所に虚淵の亀裂が走った。
「南の結界、第四層に亀裂。術士を交代させろ」
目を閉じたまま、ヴァルゼンは戦場を「見て」いた。
魔力の流れが世界の地図になり、味方の位置が光の点になり、虚淵の動きが黒い潮流として感覚に流れ込んでくる。数千人の兵士と、無数の歪みの怪物と、脈動する虚淵——その全てを、一人の魔王が感知している。
「エルヴィン、休憩を取れ。次の大波まで七分ある」
「七分か。ありがたい。剣を研ぐ時間はあるな」
エルヴィンの声が伝令を通じて返ってきた。まだ余裕がある声だ。さすがは勇者だった。六時間の連続戦闘でも、あの男は笑っていられる。
しかしヴァルゼンには余裕がなかった。
六時間の連続感知。精神が削られ続けている。視界が——いや、目は閉じているのだから視界とは言わないが——魔力感知の「視野」が、少しずつ狭まってきている。最初は戦場全体を俯瞰できたのが、今は端の方がぼやけている。
大丈夫だ。まだいける。中央部は鮮明だ。
そう自分に言い聞かせた。
「……陛下」
ザガンの声が、すぐ傍で聞こえた。
「水を」
閉じた瞼の裏で、ヴァルゼンは苦笑した。ザガンにはわかるのだ。四百年の経験が、主君の限界を正確に察知する。言葉にしなくても、呼吸の乱れや汗の量から全てを読み取っている。
「ありがとう」
目を開けずに手を伸ばし、水筒を受け取った。一口含んで、また目を閉じる。水が喉を通る冷たさが、わずかに感覚を研ぎ澄ませた。
視線を——否、感知を戦場に戻す。
そのとき、後方の監視所から使者が丘を登ってきた。各国から派遣された観戦武官の一人だった。初老の人間の将軍で、大戦の英雄として名を馳せた人物だ。
「あ、あの魔王は何をしているのだ」
使者は困惑した声で呟いた。
「六時間、目を閉じて座っているだけではないか。前線の将兵が命を懸けて戦っているのに——」
「黙れ」
ザガンの声が、氷のように冷たく響いた。老臣は使者を振り返りもせず、ヴァルゼンの傍に佇んだまま言った。
「陛下は今、最も過酷な戦いの只中におられる。剣を振るう戦いではない。世界の全てを感じ取り、全ての命の行方を同時に判断し続ける——それがどれほどの重圧か、貴殿に想像できるか」
使者は言葉を失った。ザガンの琥珀色の瞳が一瞬だけ使者を射抜き、すぐにヴァルゼンの方に戻った。
そこへ、別の報告が入った。南の結界が一時的に破られ、歪みの怪物が数体突破したという報告。兵士たちに緊張が走る。
「南東に走った三体は放置していい。あと三十秒で消える」
ヴァルゼンが目を閉じたまま言った。
「……消える?」
使者が眉をひそめた。結界を突破した怪物を放置するなど、常識では考えられない判断だ。
三十秒後、南東に走った歪みの怪物は、魔力の薄い地帯に入った途端に崩壊して消滅した。虚淵から離れすぎると、怪物は存在を維持できなくなる。ヴァルゼンはそれを、魔力の流れから読み取っていた。
「……あの魔王は、目を閉じただけで戦局を操っている」
使者の声が、震えていた。先ほどの懐疑は、畏敬に変わっていた。
「あれが、魔王の真の姿か」
別の声が響いた。
振り返ると、セラフィオンが丘の端に立っていた。白銀の髪が風に揺れ、三対の半透明の翼が淡く明滅している。金色の瞳に浮かぶ幾何学的な紋様が、ゆっくりと回転していた。
「力で敵を打ち倒すのではない。世界の全てを感じ取り、その流れを導く。——汝が見せる姿は、我の知る『王』の概念にはなかった」
セラフィオンの声には、超然とした響きの中に、微かな何かが混じっていた。それは驚きにも似ていたし、理解に近づこうとする手探りの音にも聞こえた。
ヴァルゼンにはセラフィオンの言葉は聞こえていなかった。全神経を魔力感知に注いでいた。
そのとき。
ヴァルゼンの閉じた瞼が、かすかに光った。
淡い金色の光が、閉じた目の隙間から漏れ出している。頬を伝う汗の筋が、金の光に照らされてきらめいた。小さな角も、同じ金色に淡く発光していた。
魔力感知の全力稼働。
ヴァルゼンの魔王としての血統が持つ、唯一にして最大の力。「感知・共鳴・接続」に極端に偏った魔力が、限界を超えて開放された瞬間だった。
「……美しいな」
グリゼルダの呟きが、伝令の通信越しに漏れた。前線から丘を見上げたのだろう。
「戦場にいるとは思えない。まるで——」
「祈っているようだ」
エルヴィンが続けた。
「世界のために祈る魔王。——俺は、あいつの剣であり盾でありたい」
丘の上で、金色に輝く瞳の魔王が座っている。
眼下で、多種族の戦士たちが剣と魔法を振るっている。
戦場で最も美しい光景は、何もしていないように見える一人の王だった。
——何もしていないんじゃなくて、これしかできないだけなんだけどな。
ヴァルゼンの内心の呟きは、金色の光に溶けて消えた。




