三秒。
三秒。
ヴァルゼンの魔力感知が虚淵の動きを予測できる最大の猶予は、およそ三秒だった。
三秒あれば、人は走る方向を変えられる。盾を構える向きを変えられる。詠唱を中断して回避に移れる。たった三秒。だがその三秒が、生死を分けた。
「右に逃げろ! 右!」
ヴァルゼンの叫びが丘の上から響いた。
前線の騎士が右に跳ぶ。一秒後、彼がいた場所の空間が歪み、虚無の亀裂が走った。空気が吸い込まれるような音がして、地面が一瞬だけ「なくなった」。亀裂はすぐに閉じたが、そこにいた者は跡形もなく消えていただろう。
「左翼第三班、三歩前進してから止まれ!」
三歩。言われた通りに三歩進んで停止した魔戦士たちの頭上を、歪みの怪物が飛び越えていった。もし動かなければ正面から衝突していた。もし四歩進んでいたら着地点に踏み込んでいた。三歩が正解だった。
なぜ三歩なのか。ヴァルゼン自身にもうまく説明できない。ただ、魔力の流れが「三歩分の空間は安全だ」と教えてくれたのだ。感覚としか言いようがない。
「……急に『右に逃げろ』って言われても、普通は対応できないぞ」
前線で剣を振るいながら、エルヴィンが苦笑した。だが彼は対応していた。ヴァルゼンの声が聞こえた瞬間に体が動く。それがもう反射になりつつあった。
「すみません、あと三秒で左から来ます!」
ヴァルゼンの声が返ってきた。エルヴィンは笑いながら聖剣を左に振った。予告通り、左方から突っ込んできた歪みの怪物が白銀の光に切り裂かれた。
「三秒って言ってくれるだけで十分だ! なあグリゼルダ!」
「黙って斬れ、エルヴィン」
グリゼルダの大剣が旋回し、三体の怪物を同時に断ち切った。銀髪が舞い上がり、甲冑に怪物の黒い霧がまとわりつくが、すぐに消えていく。
「……ただし」
グリゼルダが一拍置いて言った。
「魔王殿の指示の精度は、確かに異常だ。私の直感が反応するより早い。あの方は、戦場の全てを見通している」
見通していない。ただ嫌な感じがする方向を叫んでいるだけだ。
丘の上で、ヴァルゼンは両手を膝について前かがみになっていた。目を閉じたまま、額から汗が滴り落ちている。
三秒の予測。
それは「三秒先の未来が見える」という超常の力ではなかった。
魔力の流れを感じ取り、その流れの乱れから虚淵の次の動きを読む。風の匂いで雨を予測する農夫と、原理は同じだ。ただしヴァルゼンの場合、感知の精度が異常に高い。虚淵の魔力の揺らぎを、三秒前に捉えられる。
三秒。
それ以上は無理だった。四秒先は霧がかかったように曖昧で、五秒先は闇だ。
「ベリオス隊、後退! 五秒後に正面から大型が三体!」
叫びながら、ヴァルゼンは内心で悲鳴を上げていた。
情報が多すぎる。
前線全体の魔力の動き、虚淵の脈動、歪みの怪物の出現パターン、味方の位置と状態——全てが同時に感覚に流れ込んでくる。川に放り込まれて水流に揉まれているような感覚だ。
整理が追いつかない。
だが整理が追いつかないと、誰かが死ぬ。
「フェリクス、南の結界にまた負荷がかかっている。あと——」
言葉が途切れた。南の結界の向こうに、複数の魔力反応。同時に東からも。そして北からも。
「——三方向から同時に来る!」
ヴァルゼンの声が震えた。恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、情報の処理が限界に近づいていた。頭が熱い。脳が沸騰しそうだ。
「全部隊に伝達!」
フェリクスが冷静に叫んだ。この男の冷静さは、非常時にこそ真価を発揮する。
「三方同時波。第一打撃隊は東、第二打撃隊は北、防衛隊は南を受け持て! 魔王殿の感知に従い、各隊は独自判断で動け!」
戦場が三つに分かれた。
エルヴィンが東へ駆ける。聖剣が白い尾を引き、歪みの怪物の群れに突入した。
ベリオスの魔戦士団が北を受け止める。黒い鎧が魔力の光を帯び、怪物と激突した。
南では精霊の術士と騎士団が結界を盾に防衛線を守る。
「エルヴィン、二時の方向に一体、地面から! あと三秒!」
「おう!」
「ベリオス隊、右翼が薄い! 二列目を前に!」
「了解!」
「南の結界、左端が限界! 術士を入れ替えて!」
ヴァルゼンの声が途切れなく響いた。
三方向の戦場を、同時に感知し、同時に指示を出す。
普通なら不可能だ。人間の脳は、三つの戦場を同時に処理できない。
だがヴァルゼンは考えているのではなかった。感じているのだ。
三方向の魔力の流れが体の中に入ってきて、「嫌な感じ」がする方向を叫ぶ。それだけだ。思考ではなく直感。分析ではなく本能。
——本人がそう自覚していることと、周囲がそう見ていることは、まるで違っていた。
「あの魔王の指示に従えば死なない」
前線の兵士たちの間で、その言葉が合言葉のように広まっていた。人間の騎士も、魔族の戦士も、精霊の術士も。種族を超えて、一人の魔王の声を信じている。
東の前線で、エルヴィンが歪みの大型怪物を聖剣で両断した。返す刀で二体目を薙ぎ、三体目を突き刺す。振り返り、丘の方角を見上げる。
「三秒の猶予で全ての攻撃を予告する。しかも三方向同時だ。あいつは本当に……」
エルヴィンの碧い瞳が、敬意と信頼で輝いた。
「俺の力も、ヴァルゼンの指揮のおかげだな」
違う。
エルヴィンの力は、エルヴィン自身のものだ。
聖剣を振るう腕も、怪物を一刀両断する技量も、ヴァルゼンには逆立ちしてもできない。
だがその言葉は丘の上には届かなかった。ヴァルゼンは目を閉じたまま、次の三秒を感知し続けていた。
額の汗が顎を伝い、地面に落ちた。
視界がぐらりと揺れた。
集中力の限界が、確実に近づいていた。
「……あと、どれくらいもつかな」
誰にも聞こえない小さな声で、ヴァルゼンは呟いた。
三秒先を読み続ける。
それは、三秒ごとに全力を出し続けるということだ。
体力ではなく、精神力が削られていく。じわじわと、だが確実に。
だが前線では、仲間たちが命を懸けて戦っている。
ヴァルゼンが三秒を読み損ねれば、誰かが死ぬかもしれない。
だから止められない。
止まるわけにはいかない。
「——北、大型二体、あと三秒!」
震える声で、最弱の魔王は叫び続けた。




