虚淵《ニヒラム》の波は、ヴァルゼンの予測より二分早く到達した。
虚淵の波は、ヴァルゼンの予測より二分早く到達した。
北東の空が歪んだ。まるで透明な布に指を押し当てたように、空間そのものが凹み、裂け、そこから黒い霧のようなものが溢れ出した。霧の中から這い出してきたのは、歪みの怪物だった。
形が定まらない。犬のようでもあり、蛇のようでもあり、何かの影のようでもある。輪郭が常にぶれていて、見つめていると視界がぐらぐら揺れる。虚淵から溢れ出す存在のなりそこない——それが歪みの怪物だった。魔力循環が途絶えた場所から生まれる、世界の傷口から漏れ出た膿のようなものだ。
丘の上のヴァルゼンは、目を閉じたまま全てを感知していた。
「前線に接触まで三十秒——右翼側に集中している。左翼は薄い」
フェリクスが伝令に指示を飛ばす。角笛の音が平野に響き渡った。
先陣を切ったのは、エルヴィンだった。
聖剣が白銀の光を放つ。勇者が踏み込んだ一歩で地面が砕け、次の瞬間には歪みの怪物の群れの真っ只中にいた。聖剣の一閃が弧を描くたびに、怪物が消滅していく。聖属性の光は、存在のなりそこないには特に効果が高い。消滅の現象に対して、存在を肯定する光——理屈はそういうことだ、とフェリクスは以前説明してくれたが、ヴァルゼンにはよくわからなかった。
「はぁっ!」
グリゼルダの大剣が続いた。銀狼の異名は伊達ではない。重装甲冑でありながら獣のような速度で動き、大剣の一撃が怪物を三体まとめて薙ぎ払った。斬り裂かれた怪物が黒い霧になって消える。
魔族の魔戦士団が両翼から挟撃する。黒い鎧の戦士たちが魔力を纏った武器で怪物を切り裂き、精霊の結界術士が後方で防衛線の結界を張り直す。透明な魔力の壁が、怪物の進行を塞ぐ。
多種族連合軍の初交戦。
ヴァルゼンはその全てを、丘の上から感じ取っていた。
目を閉じると、世界が魔力の流れとして見える。エルヴィンの聖剣が放つ白い光。グリゼルダの剣に宿る闘気。魔戦士たちの魔力の波動。精霊の術士たちが操る自然の力。そして——虚淵から溢れ出す、冷たい虚無の気配。それらが全て、一つの巨大な絵として感覚に広がっている。
「右翼、下がれ!」
ヴァルゼンは叫んだ。声が裏返った。恥ずかしいが、今はそれどころではない。
「右翼の後方に、地中から新しい歪みが出てくる! あと五秒!」
伝令が走る。右翼の部隊が素早く後退した。
五秒後——彼らがいた場所の地面が裂け、巨大な歪みの怪物が這い出してきた。もし退いていなければ、背後から奇襲を受けていた。不意打ちで何人が倒されていたかわからない。
「的確だ……」
右翼を指揮していた人間の騎士団長が、丘の方角を見上げた。
「魔王殿の指示が、五秒先を見ていた」
見ていたわけではない。ただ、嫌な感じがしたのだ。地中の魔力に不自然な動きがあって、「ここ、なんか気持ち悪いな」と思ったから叫んだだけで——
「左! 左からも来る!」
ヴァルゼンの声が再び響いた。
前線が反応する。グリゼルダが向きを変え、大剣を振り上げた。左方から殺到した歪みの怪物の群れが、銀色の斬撃に迎え撃たれて消し飛んだ。グリゼルダの反応速度は常人離れしている。だがそれでも、予告がなければ間に合わなかっただろう。
「ヴァルゼン様の指示に従え! あの方の言う通りに動けば死なない!」
グリゼルダの怒号が戦場に轟いた。
その言葉は、瞬く間に前線全体に広まった。
魔王の指示に従えば死なない。
——いや、死なないかどうかはわからない。ただ「嫌な感じ」を叫んでいるだけなのに、どうしてそこまで信頼されるのか。怖い。信頼されるのも、ある意味では怖い。期待を裏切ったらどうしよう。
「上! 上空から来る! 全員伏せて!」
もう考えている余裕はなかった。
虚淵の波は次から次へと押し寄せ、歪みの怪物は途切れることなく湧き続けた。ヴァルゼンは目を閉じたまま、魔力感知をフル稼働させた。
右から来る。左に回り込む。地中に潜る。上空に湧く。
全ての動きが、魔力の流れとしてヴァルゼンの感覚に流れ込んでくる。情報の奔流。処理しきれない量の情報が、頭の中を駆け巡る。
「エルヴィン、前方三十歩先に大型が来る! 正面から!」
「おう!」
エルヴィンが聖剣を構えた。白銀の光が膨れ上がり、前方の空間を切り裂いた。虚淵から這い出しかけていた大型の怪物が、出現と同時に消し飛んだ。
「フェリクス、南東の結界が弱っている! 術士を三人回して!」
「了解。第七班を転進させます」
「ベリオスの部隊、一旦後退! 三分後にもう一波来る! 態勢を立て直して!」
伝令が走り、部隊が動き、戦場が変転する。
その全てが、丘の上の一人の魔王の声で動いていた。
「……目を閉じたまま、戦場を操っている」
後方で戦況を観察していた各国の使者が、息を呑んだ。
「あの魔王は、何も見ていないのに、全てを見ている」
ヴァルゼンの額に汗が浮かんでいた。
心臓が早鐘を打っている。ローブの下で手が震えている。膝が笑っている。座っていなければ、とっくに立てなくなっていただろう。
怖い。仲間が戦っているのに、自分は何もできない。剣を振れない。魔法を放てない。できることはただ、嫌な感じを叫ぶだけだ。
でも。
叫ぶだけでも、誰かが助かるなら。
自分にできるのがそれだけなら、それだけを全力でやるしかない。
「右翼、もう一度下がれ! ——うん、そう、そこでいい! 今度は大丈夫!」
ヴァルゼンの声は震えていたし、裏返っていたし、お世辞にも威厳があるとは言えなかった。歴代の魔王がこの声を聞いたら、頭を抱えるに違いない。
だが前線の兵士たちは、その声を待っていた。
あの声が聞こえる限り、自分たちは死なない。
震えていても、裏返っていても、その声は命を救ってくれる。
最弱の魔王の声が、戦場で最も頼りにされる声になっていた。




