合意の瞬間
合意の瞬間
壁が崩れてからの会議は、別物だった。
レステール王が補給路の妥協案を出した。魔族領土の通過ではなく、魔族の護衛付きで限定的な回廊を設ける。魔族の長老が条件付きで受け入れた。指揮権は分担ではなく、ヴァルゼンの魔力感知による情報を元に各国が自律的に動く方式。フェリクスが提案した「情報統合型連携」だ。
「指揮官は一人ではなく、情報源が一人。各国の軍は独立した指揮系統を維持しつつ、虚淵の予測情報を共有して連携する」
「つまり——魔王殿が目となり、我々が手足となる構造か」
レステール王が理解した。
「はい。僕が感じたことを伝えて、それぞれの判断で動いてもらう。僕には指揮の能力はないので——」
「ご謙遜を」
「いや、本当にないんです。本当に」
(信じてくれ。本当にないんだ)
補給物資の分配は、テレーヌの宰相が仕切った。港湾のプロだ。被災地優先の原則を立てつつ、西部への予防的配備も組み込んだ。
精霊の若者が、精霊の浄化能力を提供する代わりに世界樹の防衛を要請した。レステール軍の一個師団が精霊の森に派遣されることで合意。
魔族は虚淵に対する古代魔法の知識を提供し、人間側は物資と兵力で応える。互いの弱みを互いの強みで補う構造が、少しずつ形になっていった。
昨日七時間かけて一歩も進まなかった議論が——恐怖を共有した後、三時間で骨格が固まった。
「これは——大陸史上最大の外交成果ですよ」
フェリクスが後方で手帳に書き込みながら呟いた。興奮を隠しきれない声だ。
「多種族連合。人間・魔族・精霊が同一の目的のもとに結集するのは、記録上、初めてです」
「そうなの?」
「そうなのです。そして、この合意をまとめたのが一人の魔王であるという事実——歴史の教科書に載りますよ」
(載らなくていい。絶対に載らなくていい)
合意文書の起草はフェリクスとテレーヌの宰相が担当した。二人とも文書の専門家だ。一時間で草案が仕上がった。
「署名をお願いします」
テレーヌの宰相が合意文書を広げた。
レステール王が最初に署名した。太く力強い筆跡だ。
テレーヌの宰相が続いた。流麗な書体。
東部の将軍たち。無骨だが確かな筆跡。
魔族の長老。古代文字を含む独特の署名。
精霊の若者。署名の代わりに、紙に花が咲いた。精霊の証明だそうだ。
そして——ヴァルゼンの番が来た。
ペンを持った。手が震えていた。
(ここに署名したら——僕は、この連合の中心人物になる。引き返せなくなる。世界の命運を背負わされる。いいのか。本当にいいのか)
いいわけがなかった。だが——いいわけがない、で逃げるわけにもいかなかった。
古都で聞いた魔族たちの声。避難民の泣き声。将軍の震えた声。王の吐露した恐怖。
この人たちを、放っておけない。
ペンを走らせた。
「魔王ヴァルゼン」
小さな、少し歪んだ字だった。
合意文書が完成した。
大聖堂に、静かな拍手が起きた。爆発的な喝采ではなく、疲労と安堵と、わずかな希望の入り混じった拍手。
「大陸史上初めて、全種族が一つの合意文書に署名した——歴史的瞬間です」
フェリクスの声が、珍しく震えていた。
ヴァルゼンは椅子に沈み込んだ。全身の力が抜けた。
「終わった……」
「いいえ、始まったのです」
ザガンが静かに言った。
「連合は合意しました。ここからが——本番です」
(本番がこれからって、あんまりだろ)
レステール王がヴァルゼンの前に立ち、手を差し出した。
「魔王殿。——こんな会議は初めてだった」
「は、はあ。すみません、至らない議長で——」
「褒めているのだ。恐怖を共有させるという手法——いや、あれは手法ではなかったな。貴殿は本当に怖かったのだろう」
「はい。死ぬほど怖かったです」
レステール王が笑った。
「だから信用できた。——よろしく頼む、魔王殿」
握手を交わした。王の手は大きくて、硬くて、温かかった。
会議室を出ると、エルヴィンが全力で肩を叩いてきた。
「やったな、ヴァルゼン! 大陸史上最大の外交成果だぞ!」
「え、そうなの? みんな怖そうだったから、とりあえず怖い話をしないようにしただけなんだけど」
フェリクスがモノクルを外した。
「……天然の外交官」
ミラベルが泣いていた。安定の泣きっぷりだった。
「ヴァルゼン様……おめでとうございます……」
「泣かないで、ミラベル。泣くところじゃないでしょ」
「嬉しくて……」
グリゼルダが無言で頭を下げた。その目は赤くなっていなかった。たぶん。
セラフィオンが壁際から静かに観ていた。金色の瞳に浮かぶ幾何学の紋様が、ゆっくりと回転している。
「力なき者が、力ある者を繋いだか。——興味深い。実に、興味深い」
ヴァルゼンは大聖堂の入口に立ち、空を見上げた。
東の空は、まだ黒かった。
(やった。……でも、なんで俺がこれやってるの?)
答えは出なかった。
だが——合意文書の署名の隣に並んだ、王たちと長老たちの名前を思い出すと。
不思議と——悪い気はしなかった。




