恐怖を知る者
恐怖を知る者
会議二日目の朝、ヴァルゼンは作戦を変えた。
作戦といっても大層なものではない。昨日七時間かけて学んだことを、ただ愚直に実行するだけだ。
全員の話を聞いても、全員を正しいと言っても、何も進まない。
なら——全員が本当に考えていることを、引き出すしかない。
会議が再開されると、ヴァルゼンは最初に発言した。
「昨日はたくさんの議論をありがとうございました。でも——僕は昨日、一番大事なことを聞けていないと思うんです」
会場が静まった。
「皆さんが何を主張しているかは、よくわかりました。領土のこと、補給路のこと、指揮権のこと。でも——皆さんが本当に怖いと思っていることは、まだ聞けていません」
レステール王の眉が動いた。
「怖い?」
「はい。僕は——怖がりなんです。正直に言うと、この会議の議長をやっていること自体が怖い。何か間違ったことを言って、皆さんの怒りを買ったらどうしようって、ずっと考えてます」
フェリクスが後方で「それを言うのか」と呟いた。ザガンが微動だにしない。
「だから——皆さんも、怖いことがあるんじゃないかなって思うんです。表の主張じゃなくて、本音の部分で」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レステール王がヴァルゼンを見つめていた。金の冠の下の瞳に、何かが揺れていた。
「……面白いことを言う」
王が低く笑った。嘲笑ではなかった。
「魔王殿。貴殿は——こう言いたいのか。我々が利害を主張する裏に、恐怖があると」
「あの……そんなに大層な話じゃなくて。僕が怖がりだから、皆さんも怖いのかなって——」
「当然だ」
レステール王の声が、不意に静かになった。
「怖いに決まっている」
会場の空気が変わった。
「私の国は大陸最大の軍事力を持つ。だが虚淵は——剣で斬れない。魔法で焼けない。百万の軍勢を率いたところで、空間ごと消える脅威に対して何ができる。私は——国を滅ぼす判断を恐れている」
言葉が、レステール王から滑り落ちた。
堰を切ったように。
テレーヌの宰相が続いた。
「テレーヌは港で生きている国です。港が消えれば、国が消える。補給の問題に固執していたのは——港を失う恐怖があるからです。体面を保つ余裕など、本当はありません」
東部の将軍が拳を握りしめた。
「私は——部下を死なせた。虚淵に飲まれた都市から避難誘導をしている最中に、部下が三人消えた。二度とあんなことは——」
声が震えていた。鎧を着た壮年の軍人が、声を震わせていた。
魔族の長老が目を伏せた。
「我らが領土の通行を拒むのは——大戦の記憶が消えないからだ。人間の軍が魔族の地を踏んだ最後の日、何が起きたか。それを、我々は忘れられない」
精霊の若者が、初めて口を開いた。
「世界樹が……枯れ始めています。世界樹が死ねば、精霊は存在できなくなります。私は——種族の存亡を背負ってここにいます」
大聖堂に、本音が満ちた。
体面でも利害でもなく——恐怖。
全員が、何かを失うことを恐れている。その恐怖の形は違うが、質は同じだった。
ヴァルゼンは一人一人の顔を見た。
「僕も怖いです」
震えた声だったが、確かだった。
「魔力感知で虚淵を感じるたびに、怖くて仕方ない。大きくなっていく。速くなっていく。止められなかったら——大切な人たちが消えるかもしれない」
ヴァルゼンの目が赤くなった。泣きそうなのを堪えていた。
「だから——お願いです。怖いもの同士、力を合わせてもらえませんか。補給路の問題は、みんなで考えれば解決できるかもしれない。指揮権の問題も。過去の遺恨も——すぐには無理でも、少しずつ」
沈黙が落ちた。
レステール王が——椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。
「……こんな交渉術は初めてだ」
「交渉術じゃないです。ただ怖いだけです」
「知っている」
王が微笑んだ。疲労と、それから——壁が崩れた後の脱力が混じった笑みだった。
「だから効くのだ。——わかった。続けてくれ、魔王殿。テーブルから離れる気は、なくなった」
テレーヌの宰相が溜息と共に頷いた。
東部の将軍が目を拭った。
魔族の長老が、微かに——本当に微かに——口元を緩めた。
壁が崩れ始めていた。




