利害の壁
利害の壁
虚淵の情報共有が終わった後、会議は本題に入った。
そして——地獄が始まった。
「連合軍の指揮権はレステールが持つ。最大兵力を拠出するのは我々だ」
「指揮権の独占は認められない。魔族は人間の指揮下には入らない」
「ならば分担指揮はどうか。人間と魔族で東西を分ける」
「虚淵は東西に分けられない。全体で連携しなければ意味がないと、先ほど魔王殿自身が言ったではないか」
テーブルの上で拳が叩かれる回数が、発言のたびに増えていった。
「補給物資の分配は? テレーヌの港湾施設が虚淵で半壊している。物資の余裕はない」
「余裕がないのはどこも同じだ。だが東部の被災国に優先的に回すべきだろう」
「西部にも虚淵が迫っている。予防的な配備が——」
「予防より今燃えている場所を消すのが先だ!」
三時間が経った。
何一つ、まとまらなかった。
領土。資源。指揮権。補給路。過去の遺恨。どの議題を開いても、利害がぶつかり、歴史がぶつかり、感情がぶつかった。
ヴァルゼンは議長席で縮こまっていた。
(これは……無理だ。何を言っても反論が来る。何を提案しても「うちの事情は」って始まる。みんな自分の国のことで精一杯で、連合どころじゃない)
四時間目に入った頃、ヴァルゼンは何とか発言を試みた。
「あ、あの、皆さんが言っていることは——全部正しいと思います」
会場が静まった。
「レステール王のおっしゃる指揮の統一も必要だし、魔族の方々の独立性も大切だし、テレーヌの港の問題も深刻だし、東部の被災も、西部の予防も——全部、正しいです」
一瞬の沈黙の後、テレーヌの宰相が嘆息した。
「魔王殿。全てを正しいと言うのは、何も言っていないのと同じですよ」
(わかってる。わかってるんだよ。でも本当に全部正しいと思うんだから仕方ないだろう)
レステール王が腕を組んだ。
「魔王殿は全ての立場を尊重する姿勢をお持ちのようだが——尊重するだけでは合意には至らない」
正論だ。反論できない。
ヴァルゼンは口を閉じた。
会議は膠着した。
五時間目。進展なし。
六時間目。まだ進展なし。
休憩が何度か入ったが、休憩中も各国の使者は互いを警戒して腹を探り合っている。休憩になっていない。
七時間目。
レステール王がついにテーブルを叩いた。
「これ以上の議論は時間の無駄だ。各国が独自に対処するしかないのではないか」
会場に動揺が走った。
独自に対処——つまり、連合の断念。
ヴァルゼンの胃が氷のように冷たくなった。
(駄目だ。独自対処じゃ間に合わない。フェリクスのシミュレーションでは、各国バラバラに動いたら——二ヶ月で大陸の三割が消える)
だが反論の言葉が出てこなかった。七時間かけて何も進まなかった会議に、何を言えばいいのかわからなかった。
「……このまま帰りたい」
ぽつりと漏れた。
内心の声だったはずだ。だが、疲労で内心と外側の境界が溶けていた。
聞こえてしまった。
会場の全員が、ヴァルゼンを見た。
「い、いや、今のは——その——」
顔が真っ赤になった。完全にやってしまった。
だが——
テレーヌの宰相が、小さく笑った。
「……正直な方だ」
東部の将軍が肩を落とした。
「同感です。私も帰りたい」
魔族の長老が目を閉じた。
「我々とて、同じだ」
そこに。ほんの一瞬だけ。
対立ではない何かが、会場に流れた。
全員が疲れている。全員が帰りたい。全員が、この場にいること自体が苦しい。
利害は対立している。だが——疲労だけは、共通だった。
フェリクスが後方で目を見開いた。
(今の一言で——空気が変わった? 計算なのか。偶然なのか。いや、あの方の場合、その区別に意味はないのか)
ヴァルゼンは赤い顔のまま、深呼吸をした。
「すみません、今のは忘れてください。えっと——明日も、続けさせてください。今日は、みなさん疲れたと思うので」
レステール王がしばし沈黙した後、椅子にもたれかかった。
「……いいだろう。明日も続ける」
七時間の膠着の末、得られた唯一の成果は——「明日も続ける」という合意だけだった。
だが、それは小さな前進だった。
少なくとも、席を蹴って帰る者は——いなかった。




