異変の本質
異変の本質
エルスタードの避難所として使われている大聖堂の地下で、ヴァルゼンは一晩中起きていた。
眠れなかったのではない。魔力感知を切れなかったのだ。
虚淵の脈動が、耳鳴りのように頭の中に響いている。規則的な——いや、規則的ではない。だが完全に無秩序でもない。何かのリズムがある。
心臓の鼓動に似ている。
(……生きている?)
その言葉が、ふと口をついて出た。
「ヴァルゼン殿」
フェリクスが起きていた。手帳を広げ、モノクルを覗き込んでいる。この男も寝ていないのだろう。
「今、何と?」
「え、あ——いや、その。虚淵が、生きている……ような気がして」
フェリクスの目が光った。
「詳しく」
「うまく言えないんだけど……脈動があるんだ。心臓みたいな。ドクン、ドクンって。でも攻撃してくる感じじゃなくて——何だろう。痛がっている、のかな」
フェリクスがモノクルを外し、ヴァルゼンを凝視した。
「虚淵の意志を読み取った——ということですか」
「意志っていうか、その——」
「興味深い。いや、興味深いどころの話ではない」
フェリクスが手帳に猛烈な速度で書き込み始めた。独り言が漏れる。
「虚淵は外部から侵入した異物ではなく、世界そのものの反応……つまり傷の治癒過程に似た現象……魔力循環の停滞が世界に『傷』を生み、それが自然治癒しようとする反応が虚淵——」
「フェリクス?」
「待ってください。あと三十秒で仮説がまとまります」
三十秒きっかりで、フェリクスが顔を上げた。
「ヴァルゼン殿。虚淵は敵ではない可能性があります」
「え?」
「世界の魔力循環が停滞している。先代魔王が維持していた循環が、先代の死後に崩壊し始めた。虚淵は——その崩壊に対する世界の免疫反応のようなもの。傷口を塞ごうとしているのです。ただし、その方法が乱暴すぎて、空間ごと削り取ってしまっている」
ヴァルゼンは目を瞬いた。
「つまり……虚淵は世界を壊そうとしているんじゃなくて、直そうとしている?」
「正確には、直そうとして失敗している。免疫の暴走です。病気を治そうとして、かえって身体を壊すのに似ている」
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンの魔力感知が、改めて虚淵の脈動を捉えた。
確かに——攻撃的な気配はなかった。痛みに喘ぐような、助けを求めるような、切迫した鼓動。
「フェリクス。もう一つ、気になることがあるんだけど」
「何でしょう」
「虚淵は——個別じゃない気がする」
フェリクスの手が止まった。
「ここのと、南部のと、北西のと——全部繋がっている感じがする。地面の下で、一本の根みたいに」
フェリクスがモノクルを掛け直した。解析の光が瞳の奥で回転する。
「全ての虚淵が一つに繋がっている——つまり、個別の現象ではなく、一つの巨大な崩壊現象の表層が各地に顔を出している」
「う、うん。たぶんそんな感じ」
「これは——」
フェリクスが珍しく言葉を失った。手帳を握る指が白くなっている。
「想定以上に深刻です。個別に対処しても無意味だということになる」
翌朝、一行は避難所で合流した。ヴァルゼンの報告を聞いたエルヴィンが、珍しく腕を組んで考え込んだ。
「虚淵が全部繋がっている。で、世界が勝手に治そうとして暴走してる。ってことは——個別に叩いても意味がないのか」
「そういうことです」
「じゃあどうすりゃいいんだ」
「それを今から考えるんですよ、エルヴィン」
フェリクスがため息をついた。
ザガンが静かに口を開いた。
「陛下の魔力感知がなければ、この仮説に到達することは不可能でした。各地の虚淵が繋がっているという情報は、観測手段がなければ得られない」
「陛下がすべてを見通していたということか」
グリゼルダが深く頷いた。
(見通してない。嫌な感じがすると言っただけだ。毎回言ってるけど誰も聞いてくれない)
ミラベルが心配そうにヴァルゼンの顔を覗き込んだ。
「ヴァルゼン様、一晩中起きていたのでは……目の下に隈ができています」
「あ、うん。ちょっと眠れなくて」
「回復魔法をかけますね。疲労回復には効きますから」
「ありがとう、ミラベル」
温かい光が身体を包んだ。疲労が和らぐ。
だが——頭の中の脈動は消えなかった。
虚淵は生きている。苦しんでいる。そして——全てが繋がっている。
ヴァルゼンは窓から東の空を見た。黒い虚無が、また少し大きくなっていた。
(止められるのか。こんなものを、本当に止められるのか)
答えは出なかった。
だが、考えることを止める気にはなれなかった。




