飲まれる都市
飲まれる都市
大陸東端の都市エルスタードに着いたのは、三日後の夕刻だった。
最初に見えたのは——空の色だった。
夕焼けではなかった。地平線の向こう、本来なら山並みが見えるはずの方角が、黒く塗り潰されていた。黒というよりも、色の不在。空間そのものが「ない」。
「あれが……虚淵」
ヴァルゼンは馬上で絶句した。
今まで何度か虚淵を目にしてきた。森の中に浮かぶ歪み。古都の外縁で揺らめく空間の裂け目。だがそれらは、せいぜい家一軒分の大きさだった。
目の前にあるのは——山脈を丸ごと呑み込んだ虚無だった。
「フェリクス」
「ええ。モノクルの解析範囲を超えています。規模が桁違いだ」
フェリクスの声が珍しく硬い。分析不能。この男の辞書にはなかったはずの言葉だ。
エルスタードの街は混乱の極みにあった。
住民が荷物を背負って西へ逃げている。馬車が渋滞し、怒号と泣き声が交錯する。兵士たちが避難誘導をしているが、完全に人手が足りていない。
そして——街の東端が、消えかかっていた。
建物が歪む。壁が波打つ。窓硝子が液体のように溶け、木材が虚空に吸い込まれていく。音はない。恐ろしいほど静かに、空間が「なくなっていく」。
「あそこにまだ人がいる」
エルヴィンが指さした。街の東端、崩壊区域のすぐ手前で、一人の老人が座り込んでいた。動けないのか、動く気がないのか。
「俺が行く」
「待て、エルヴィン。あの境界に近づきすぎると——」
フェリクスの制止は間に合わなかった。エルヴィンは馬を駆って、崩壊区域に飛び込んでいった。
ヴァルゼンの魔力感知が叫んだ。
(右側。右側から来る)
「エルヴィン! 右に避けて!」
叫んだ瞬間、エルヴィンの右手の建物が歪み、空間が裂けた。虚淵の波が押し寄せてくる。エルヴィンは反射的に馬首を左に向け、老人を片腕で抱え上げて離脱した。ギリギリだった。
「ナイス指示だ、ヴァルゼン!」
「ナイスとかじゃなくて死にかけたよ!?」
だがヴァルゼンの魔力感知は止まらなかった。虚淵の脈動のパターンが——読める。完全にではない。だが、次に「食われる」区画が、数秒前にわかる。
「南西区画、三分以内に崩壊します! まだ避難が終わっていないはず!」
「確かですか、ヴァルゼン殿」
グリゼルダが鋭く問う。
「たぶん! ——いや、確かです! 嫌な感じがその方向から来てます!」
グリゼルダが即座に動いた。守備兵に声をかけ、南西区画の住民を急ぎ避難させる。三分後——予告通り、南西区画の一角が虚無に飲まれた。
住民は全員、避難済みだった。
「間に合った……」
ヴァルゼンが安堵で膝をついた。
「魔王様のおかげだ! 魔王様が予測してくれた!」
避難してきた住民が口々に叫ぶ。
「いや、逃げろって言っただけなんだけど——」
だが声は届かない。すでに「魔王が虚淵を予測して住民を救った」という話が広まっている。
ヴァルゼンは疲労で座り込んだまま、東の空を見た。
虚淵は止まっていなかった。
ゆっくりと、確実に、西へ向かって拡大している。
「フェリクス。……これ、止まる気配ある?」
「ありません」
フェリクスの声は平坦だったが、その平坦さの中に深刻さが滲んでいた。
「現時点のデータでは、拡大速度は加速傾向にあります。対処しなければ——一ヶ月以内にエルスタードが完全に飲まれる」
「一ヶ月……」
「それだけではありません」
フェリクスがモノクルを外した。疲労の色が見えた。
「大陸の他の地域からも報告が入っています。南部で一箇所。北西で二箇所。虚淵の発生が、同時多発的に始まっている」
ザガンが腕を組んだ。
「一国の力では、対処不可能です」
重い沈黙が落ちた。
避難民の声が遠くに聞こえる。子供の泣き声。荷車の軋み。崩れ落ちる建物の音なき音。
ヴァルゼンは東の空を見つめたまま、拳を握った。
あの黒い虚無の向こうで、さらに大きな脈動を感じていた。
まるで——世界が、痛がっているような。
(止めなきゃ。何とかしなきゃ。でも——僕に何ができるんだ)
答えは出なかった。
だが、古都で聞いた魔族たちの声が、頭の中で響いていた。あの人たちの居場所も、この虚無に飲まれかねない。
エルヴィンが隣に立った。
「ヴァルゼン。どうする」
「……わからない。でも、放っておけない」
「そうだな。俺もだ」
勇者が笑った。こんな状況でも笑える男だった。
「考えよう。一緒にな」
救われた都市の向こうで、虚淵が脈動している。




