帰路の報せ
帰路の報せ
古都を発つ日の朝は、快晴だった。
ヴァルゼンは荷物をまとめながら、この数日間を振り返っていた。先代の記録。ザガンの告白。議会での三日間。残党の襲撃。子供に手を握られた儀式。
どれも現実離れしていた。だが現実だった。
「陛下、出立の準備が整いました」
ザガンの声に促されて外に出ると——古都の大通りが、魔族で埋め尽くされていた。
「え」
「見送りです」
ザガンが淡々と言った。
「……この人数、全員?」
「古都の住民のおおむね全員かと」
(おおむね全員って)
大通りの両側に、魔族たちが整然と並んでいた。老人。子供。壮年の鍛冶師。若い女性。懐疑派の長老。穏健派の長老。議場で話を聞いた一人一人の顔が、そこにあった。
ヴァルゼンが歩き始めると、魔族たちが頭を下げた。
静かだった。歓声でも号泣でもなく、ただ静かに頭を下げる。それが延々と続いた。大通りの端から端まで、途切れなく。
「ヴァルゼン様、お気をつけて」
「また来てくださいね、魔王陛下」
「あなたの言葉、忘れません」
小さな声が、あちこちから聞こえてきた。
ヴァルゼンは一人一人に頭を下げ返した。ぎこちなく、何度も足を止めて、何度も「ありがとうございます」を繰り返した。
あの子供が走ってきた。
「おうさま、またくる?」
「うん。……また来るよ」
「やくそく」
「約束」
子供が満面の笑みを浮かべて、母親のところに駆け戻った。
エルヴィンが感極まった声で言った。
「すごいな。大陸中の魔族がヴァルゼンに忠誠を——」
「大陸中じゃないよ。古都の住民だけだよ」
「いずれ大陸中に広がるさ!」
(その展開が一番怖いんだけど)
古都の門を抜けて、街道に出た。振り返ると、門の上から手を振る魔族たちが見えた。小さくなっていく古都の輪郭を、ヴァルゼンはしばらく眺めていた。
「ヴァルゼン様」
ミラベルが隣に並んだ。
「何か、変わりましたね」
「え? 何が?」
「ヴァルゼン様が、です。古都に来る前と、今と——何かが違います」
「そうかな。僕は何も変わってないと思うけど」
ミラベルは首を横に振った。
「変わっています。うまく言えないのですが——あの議場で皆さんの話を聞いている時のヴァルゼン様は、とても真っ直ぐで。あの方のために何かしたいという顔をしていました」
「……そんな顔してた?」
「はい」
ヴァルゼンは黙って歩いた。
変わったのだろうか。自分では、わからない。
ただ——古都の魔族たちの顔が、頭から離れなかった。彼らの声が、まだ耳に残っていた。
(この人たちの力になれるなら)
その想いは、確かにあった。以前の自分には、なかったものだ。
だが、それが何を意味するのかは——
「陛下!」
ザガンの鋭い声が、思考を断ち切った。
街道の先から、一騎の伝令が全速力で駆けてきた。馬が泡を吹いている。尋常ではない速度だ。
伝令は一行の前で馬を止め、転がるように下馬した。息も絶え絶えに、巻物を差し出す。
「き、緊急報告です。王都からの——」
ザガンが巻物を受け取り、目を通した。
元参謀の表情が——凍りついた。
四百年を生きた老臣が、こんな顔をするのを見たのは初めてだった。
「何があった」
グリゼルダが大剣の柄に手を添えた。
ザガンが巻物をたたみ、静かに——だがその静けさの下に巨大な緊張を滲ませて——言った。
「虚淵が、大陸の東端を飲み込み始めています」
街道に沈黙が落ちた。
「飲み込む?」
フェリクスの声が鋭くなった。
「今までの局所的な発生とは次元が違います。東端の三都市が同時に——空間ごと消失しつつあると」
「三都市が同時に……」
エルヴィンの表情が変わった。勇者の顔だ。笑みが消え、碧い瞳に鋭い光が宿る。
「住民は」
「避難指示は出ていますが、間に合うかどうか」
ヴァルゼンの魔力感知が、遠い東の方角に何かを捉えた。
以前感じたものとは、桁が違った。
脈動する虚無。世界に穿たれた巨大な傷口。地平線の彼方で、何かが——世界を、食べている。
「……大きい」
声が漏れた。
「ヴァルゼン?」
エルヴィンが振り返った。
「何か感じるのか」
「うん。大きい。今までのと——全然、違う」
ヴァルゼンの顔から血の気が引いていた。
古都で芽生えた小さな温もりが、巨大な脅威の前で震えている。
だが——消えてはいなかった。
「行こう」
誰が言ったのかわからなかった。
エルヴィンだったかもしれない。グリゼルダだったかもしれない。あるいは——ヴァルゼン自身だったかもしれない。
一行は東へ向かって、走り始めた。




