魔族の記憶
魔族の記憶
記録保管庫を出た翌日、古都の中央広場でヴァルゼンは思いがけない光景を目にした。
魔族たちが、集まっていた。
数十人。いや、百人を超えているかもしれない。広場の石畳を埋め尽くすように老若男女が腰を下ろし、あるいは立ったまま、中央に設けられた篝火を囲んでいた。
「何ですか、これ」
ヴァルゼンが小声でザガンに尋ねると、元参謀は表情を変えずに答えた。
「追憶の集いです。先代魔王を偲ぶ古都の伝統行事……ですが、今夜はいつもと趣旨が異なるようですね」
異なる。何がだ。
答えはすぐにわかった。広場の魔族たちの視線が、一斉にヴァルゼンを捉えたのである。
(うわ、見てる。全員こっち見てる。逃げたい)
「ようこそお越しくださいました、魔王陛下」
白髪の老魔族が杖をつきながら歩み寄ってきた。額から伸びる角は年輪のように横縞が入り、数百年の齢を物語っている。古都の長老だ。
「今宵は、先代のことをお話しさせていただきたいのです」
「は、はあ……」
断る選択肢は存在しなかった。エルヴィンが後ろから「おお、いいじゃないか!」と肩を叩いてきたせいで、完全に退路が絶たれた。
篝火のそばに腰を下ろすと、長老がゆっくりと語り始めた。
「先代——ゼルヴァス陛下は、偉大な方でした。この古都を虚淵の侵食から守り、魔族と人間の間に立ち、魔力循環の歪みを一人で正し続けた」
広場の魔族たちが頷く。誰もが静かだった。
「しかし——我々は、陛下を守れなかった」
長老の声が震えた。
「陛下が倒れた日、この広場で我々は泣きました。強すぎるがゆえに、誰も傍に立てなかった。頼ってほしいと願いながら、その強さの前に膝を折ることしかできなかった」
篝火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がり、魔族たちの影を揺らした。
「あれは——我々の怠慢でした」
長老だけではなかった。広場のあちこちで、魔族たちが語り始めた。
先代が好きだった朝霧の散歩のこと。
先代が子供たちに魔法を教えた日のこと。
先代が疲れ切った顔を隠しきれなくなった、最後の数ヶ月のこと。
一人、また一人と声が重なった。誰もが先代を敬い、そして先代を一人にしてしまった後悔を抱えていた。
ヴァルゼンは何も言えなかった。ただ黙って聞いていた。
それは——昨日ザガンから聞いた話と、まったく同じ構図だった。
強すぎる王を、誰も支えられなかった。
「だからこそ」
長老が真っ直ぐにヴァルゼンを見た。老いた琥珀色の瞳に、篝火の光が揺れている。
「この魔王には、あの孤独を繰り返させてはなりません」
え。
「先代は我々を守った。だが我々は先代を守れなかった。ならば——今度の魔王は、我々が守る」
広場がざわめいた。魔族たちの目が変わった。ヴァルゼンを「恐れるべき王」として見る目ではなく、「守るべき王」として見る目に。
(い、いやいやいや。守るって何。僕は守られる側でいいんですか。いいんですけど。いいんですけど、それって魔王として致命的に駄目なんじゃ)
内心で必死にツッコミを入れるが、目の前の光景は止まらなかった。
長老が深々と頭を下げた。
それに倣って、広場の魔族たちが次々と頭を垂れた。
「魔王陛下。我らは貴方を王と認めます。ですが——力ある王としてではなく、我らが共に歩み、共に守る王として」
ミラベルが隣で泣いていた。もう止める気もないらしい。エルヴィンは感極まった顔で腕を組んでいる。グリゼルダは無言だが、拳を握り締めていた。フェリクスだけが冷静に——いや、モノクルを外して目元を指で押さえていた。曇ったのだろう、たぶん。
ザガンが小さく呟いた。
「……やはり、この方を連れてきて正解だった」
ヴァルゼンは返す言葉がなかった。
篝火に照らされた百を超える魔族の頭が、月明かりの下で揺れている。自分のために頭を下げる者たちを見るのは——初めてではなかった。魔王軍時代にも、形式として魔族たちは頭を下げた。
だが、あの時と今では、まるで意味が違った。
あの時は恐怖だった。
今は——何だろう。わからない。わからないけれど、胸の奥が熱くて、少し痛い。
「あ、ありがとう、ございます」
それだけしか言えなかった。二日続けて同じ台詞だ。語彙力が壊滅している。
だが魔族たちは微笑んだ。子供の魔族が一人、ヴァルゼンの膝にぴょこんと座った。昨日も懐いてきた子だ。
「おうさま、ないてる?」
「な、泣いてないよ」
泣いていた。
長老が篝火越しに告げた。
「明日、議会を開きます。貴方を正式に王として迎えるか否か——古都の全氏族で話し合いましょう」
ヴァルゼンの背筋が凍った。
議会。
それは——もっと面倒なことになる予兆だった。




