古都の影
古都の影
ゼル・ヴァーラスの外縁部に異変が起きたのは、到着四日目の朝だった。
ヴァルゼンは寝台の上で目を覚ました。目覚まし代わりのエルヴィンのいびきは、今朝も盛大だった。だがヴァルゼンを起こしたのは、いびきではなかった。
全身に鳥肌が立っていた。
(来てる)
虚淵だ。
皮膚の下を何かが這うような、あの不快感。空気の色が変わるような、あの嫌な感じ。目を覚ました瞬間に全身を包み込んでいた。
近い。ゼル・ヴァーラスのすぐ近く——外壁の向こう、東側の崖に面した外縁部。そこに虚淵の気配が漂い始めていた。まだ弱い。だが、じわじわと濃くなっている。
「ザガンさん!」
ヴァルゼンは寝間着のまま廊下に飛び出した。石の廊下が素足に冷たい。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。
「虚淵です! 東の外縁部に——まだ小さいですけど、広がりそうです!」
ザガンは隣室で待機していた。元参謀は就寝中も常に臨戦態勢だ。ヴァルゼンの声を聞いた瞬間には、すでに完全に覚醒していた。
「東の外縁部。規模は」
「まだ小さいです。でも、夕方には——」
「わかりました。衛兵隊に通達します」
ザガンの反応は早かった。三十分後には古都の衛兵隊が東側外縁部に展開し、住民の退避が始まっていた。ザガンの手配は正確で迅速で、無駄がなかった。先代に仕えた男の経験が、遺憾なく発揮されている。
一行も現場に向かった。
外縁部は、古都の最も外側にある居住区だった。岩壁に張り付くように建てられた小さな家々が連なっている。壁は薄く、屋根は低い。ここに住んでいるのは、主に古都で最も貧しい層の魔族たちだ。中心部の堅牢な岩窟住居とは違い、外縁部の家々は虚淵の影響に脆い。
「ここが歪み始めている」
フェリクスが外壁の一角を指した。空間が——揺れていた。水面に石を投げ込んだときのように、景色が歪み、色が滲んでいる。虚淵の前兆現象だ。見ているだけで平衡感覚が狂いそうになる。
「まだ裂けてはいませんが、時間の問題ですね。半日以内に虚淵が発生する可能性があります」
古都の衛兵隊長——巨体の鬼族——が蒼い顔で報告した。額の角が汗に光っている。
「外縁部の住民三百名の退避は完了しております。しかし——この場所が虚淵に飲まれれば、外壁の構造が弱まります。古都全体への影響が——」
「影響範囲を特定しましょう」
フェリクスが地図を広げた。古都の構造図だ。岩盤の層構造、耐力壁の位置、魔力による構造補強の配置が細かく記されている。
「ヴァルゼン殿、虚淵の気配の範囲を教えてください。どこまで広がりそうですか」
ヴァルゼンは目を閉じた。
意識を集中する。外縁部の歪みを中心に、虚淵の波動が地面の下を伝っていく感覚を追う。北へ——弱い。南へ——ほとんどない。東へ——崖の向こうに抜けていく。西へ——外壁で止まっている。
「東の外壁から……百歩くらい。北側には広がらないと思います。南側にもほぼ広がらない。東に向かって——崖の外側に抜けていく感じです。外壁を越えて内側に来ることは……たぶん、ない」
「つまり、被害は外縁部の一角に限定される」
フェリクスが地図に線を引いた。
「古都の中心部には影響しません。外壁の修復は必要ですが、構造全体が崩れることはない。住民の再入居は虚淵の収束後に判断しましょう」
衛兵隊長が安堵の息を漏らした。巨体の肩から、目に見えて力が抜けた。
「魔王様のおかげで、被害範囲が特定できました。防衛線の配置を最適化できます。ありがとうございます」
「いえ、僕は感じたことを言っただけで——」
だがヴァルゼンの謙遜は、もう誰の耳にも届かなかった。
ヴァルゼンの周囲で、古都の魔族たちがざわめいた。外縁部の住民たちだけでなく、中心部から様子を見に来た住民たちも集まっている。
「魔王様がいてくだされば、安全だ」
「虚淵の動きがわかるなんて——人間の術師にも精霊にもできないことだぞ」
「これなら、怖くない」
その声は安堵だった。純粋な安堵。虚淵という理不尽な脅威を前にして、ヴァルゼンの存在が——魔族たちの安心材料になっていた。
(安心材料……僕が? 僕は自分自身の安心材料すら見つけられないのに)
複雑な気持ちだった。嬉しいのか怖いのか、自分でもわからない。だが——誰かの安心になれるなら、それは悪いことではないと思った。
夕方、虚淵は予測通りに発生し、外縁部の一角を飲み込んだ。だがヴァルゼンの感知のおかげで被害は最小限に抑えられ、住民に犠牲者は出なかった。家屋は失われたが、命は残った。
エルヴィンが衛兵たちと協力して仮設の避難所を整え、ミラベルが退避住民の体調を診て回り、グリゼルダが外壁の巡回警備を引き受けた。チームとして機能している。
記録保管庫への案内が、翌日に決まった。
「明日、古都の最奥にある保管庫へご案内します」
ザガンが静かに告げた。琥珀色の瞳に、覚悟の光が宿っている。
「厳重に封印された場所です。先代が遺した記録の全てが——あの中に眠っています」
ヴァルゼンは頷いた。
(怖い。でも——行かなきゃいけない。ここの人たちのためにも)
その夜、ヴァルゼンは久しぶりに眠れなかった。




