魔族の日常
魔族の日常
ゼル・ヴァーラスの市場は、ヴァルゼンの想像を裏切った。
活気があった。笑い声があった。子供が走り回っていた。
(あれ。怖い街を想像してたんだけど——普通に、街だ)
赤い岩肌の回廊を歩く。左右には露店が並び、色とりどりの品物が所狭しと陳列されていた。魔族の工芸品——角を磨いた装飾品や、魔力を込めた光る石、獣の牙で作った首飾り。人間の市場とは品揃えが違うが、賑やかさは変わらない。
「へえ、これは面白い」
フェリクスが露店の一つに足を止めた。魔力を封じた水晶の小瓶が並んでいる。
「魔力を液体化して保存する技術ですか。人間社会にはない技術だ。学術的に極めて興味深い」
「おっ、武具の店もあるぞ!」
エルヴィンが別の露店に飛びついた。巨大な斧や棍棒が壁に掛けられている。人間用の武器の倍はある。
「でかいな! これ振れるのか? 振ってみていいか?」
「お、お客さん、それは鬼族の大将用で——」
店主の魔族が慌てている。エルヴィンが片手で大斧を持ち上げたのを見て、さらに慌てた。
「人間で、この重さを片手で……!?」
「軽いな! もっと重いのはないか?」
グリゼルダは工房の通りで足を止めていた。鍛冶屋が赤い炎の中で金属を叩いている。その技術に、武人の目が釘付けになっているようだった。
ミラベルは薬草屋を覗き込んでいた。見慣れない薬草の数々に、僧侶としての好奇心が刺激されているらしい。
ヴァルゼンは一行のやや後方を歩いていた。周囲の魔族たちの視線が気になる。いや、視線どころではない。道を歩くだけで、魔族たちが左右に分かれて道を空ける。
(すごく怯えてる。僕のことを怯えてる。これ、気まずい)
ヴァルゼンの方も怯えているのだが、それは魔族たちには見えていないらしい。「最凶の魔王が市場を視察している」という認識で統一されているようだった。
市場の奥に、学校のような建物があった。子供たちの声が聞こえる。
「あれは魔族の学び舎です」
ザガンが説明した。
「魔族の子供も、人間と同じように読み書きや算術を学びます。加えて、魔力の制御法を基礎から教えています」
「へえ……」
ヴァルゼンは建物を覗き込んだ。窓の向こうで、小さな魔族の子供たちが石板に何かを書いている。角はまだ小さくて、肌の色もまだ薄い。人間の子供とほとんど変わらない。
「普通ですね」
つい口に出た。
その瞬間、後ろで聞いていた魔族たちが息を呑んだ。
「ま、魔王様が……」
「我々を、『普通』と……!」
「対等に見てくださった!」
歓声が上がった。涙ぐんでいる者までいる。
(え。何。「普通ですね」って感想を言っただけなのに、なんでこんな大事になるの)
「魔族は長年、人間社会から異端視されてきた」
ザガンが静かに説明した。
「『普通』と言われることは、魔族にとって最大の賛辞に等しいのです」
(知らなかった。そんな意味があるなんて)
だが結果として、ヴァルゼンの何気ない一言が、古都の魔族たちの心を大きく動かしてしまった。「魔王様が我々を対等に見てくださった」という噂は、市場から全層へと瞬く間に広がっていった。
セラフィオンが後方で、翼を微かに明滅させながら全てを観測していた。
「……また、だ。意図せず周囲を変容させる。この者の周りでは、常にこれが起きる」
その呟きは、市場の喧騒にかき消された。
市場を一回りして通りに出ると、ヴァルゼンの足元に何かがぶつかった。
見下ろすと——小さな魔族の子供が、ヴァルゼンの脚にしがみついていた。
角はまだ豆粒ほどで、目は丸く大きい。四歳くらいだろうか。きょとんとした目でヴァルゼンを見上げている。
怖がっていなかった。
(あ。この子、僕を怖がってない)
大人の魔族たちはビクビクしている。衛兵も、商人も、職人も、全員がヴァルゼンの名を恐れている。
だがこの子供は——ただ、にこにこと笑っていた。
子供の母親らしき女性が慌てて駆け寄ってきた。
「す、すみません魔王様! この子が失礼を——!」
「いえ、全然大丈夫です」
ヴァルゼンはしゃがみ込んで、子供と目線を合わせた。
「こんにちは」
子供が、にっと笑った。
歯が抜けていた。前歯が二本。その隙間から、無邪気な笑顔が溢れていた。
(この子は——僕が弱いことを、本能で感じ取ってるのかもしれない。だから怖がらない)
弱いから、怖くない。
その事実が——なぜだか、少しだけ嬉しかった。




