ゼル・ヴァーラス
ゼル・ヴァーラス
その街は、山の中から生えていた。
いや、正確に言えば、山そのものが街だった。赤黒い岩肌を刳り抜いて造られた巨大な建造物群が、切り立った崖の斜面に段々と連なっている。最下層から頂上まで、目測で二十階層はあるだろうか。各層を繋ぐ階段は岩から直接削り出されており、その一段一段に魔族の古い紋様が彫り込まれていた。
(でか……)
ヴァルゼンは、馬車の窓から身を乗り出すようにして、その光景を見上げていた。
魔族の古都、ゼル・ヴァーラス。
ザガンからは「陛下の故郷のようなものです」と説明を受けていたが、ヴァルゼンにとっては完全に初見の場所だった。なにしろ魔王位を押しつけられてからこっち、玉座の裏側にある自室と謁見の間を往復するだけの生活だったのだ。魔族社会の中枢など見たこともない。
「おお……! これが魔族の古都か!」
隣でエルヴィンが目を輝かせていた。勇者の目はどこまでも少年のそれで、巨大な岩窟都市を前にしても恐れより興奮が勝っている。
「素晴らしい。人の手では——いや、魔族の手か。これだけの建築を成し遂げるとは」
フェリクスがモノクルを指で押し上げながら呟いた。
「岩盤の強度と魔力による構造補強の組み合わせですか。なるほど、魔力濃度が高い土地だからこそ成立する建築様式だ。興味深い」
グリゼルダは無言だったが、その蒼灰色の目は鋭く周囲を警戒していた。甲冑の下で筋肉が微かに緊張しているのが見て取れる。
ミラベルだけが、ヴァルゼンの方をちらちらと見ていた。
「ヴァルゼン様、お加減は大丈夫ですか……?」
「え、あ、はい。大丈夫です。全然大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
馬車が城門に近づくにつれ、ヴァルゼンの心拍数は右肩上がりに上昇していた。城門の両脇に立つ衛兵が見える。二メートルを優に超える体躯。額から突き出た太い角。腕の太さはヴァルゼンの胴回りほどもある。
(怖い怖い怖い。あの人たち、僕を見た瞬間に「偽物だ」って見破るんじゃ——)
「陛下」
隣に座るザガンが、穏やかな声で言った。
「古都の者たちは、陛下の来訪を心待ちにしております。どうかご安心を」
「あ、はい。安心、してます」
声が裏返った。ザガンの琥珀色の目が微かに細まったのは、呆れだったのか苦笑だったのか。
そしてセラフィオン。馬車の隅に浮くように座った神使は、金色の瞳でヴァルゼンを静かに観察していた。翼が一瞬、微かに明滅した。
「汝の心拍が乱れている。恐怖か」
「いえ! あの、緊張です、緊張! 初めての場所なので!」
「恐怖と区別がつかぬが」
(この人、空気読めないのか読まないのか)
城門が近づいた。衛兵たちがこちらに気づく。
巨体が一斉に背筋を正した。
そして——
「ま、魔王様がお越しだ——!」
その叫びが、岩窟都市全体に反響した。
声の主は、城門の衛兵長だった。二メートル半はあろうかという偉丈夫が、ヴァルゼンの馬車を目にした瞬間、直立不動になり——声が裏返っていた。
(え。今の声、裏返ってなかった?)
周囲の衛兵たちも同様だった。武器を持つ手が震えている。汗が額に浮かんでいる。目が泳いでいる。
その様子は、まるで——
(……怯えてる?)
ヴァルゼンは目を瞬いた。自分がビクビクしているのはいつものことだ。だが、目の前の屈強な魔族たちも、明らかにビクビクしていた。
理由は簡単だった。
三つの試練を突破し、強硬派を瓦解させ、魔族の歴史を塗り替えた「最凶の魔王」が、ここに来たのだ。——彼らの認識では。
「こ、こちらへどうぞ、魔王様。道は清めてございます。不備がございましたら、何なりと——」
「あ、いえ、お気遣いなく。そのままで大丈夫ですので」
ヴァルゼンは両手を振って辞退した。
衛兵たちが息を呑んだ。
「お、お聞きになったか。魔王様が、我々に気を遣ってくださった……!」
「なんという器の大きさだ。あの最凶の魔王が、一介の門番に対して……」
(いや、普通のことを普通に言っただけなんだけど)
ザガンが馬車を降り、ヴァルゼンに手を差し伸べた。
「さすがは陛下。到着と同時に民心を掌握なさるとは」
「してないです。全然してないです」
しかしその言葉は、誰にも届かなかった。
馬車を降りたヴァルゼンの目に、ゼル・ヴァーラスの全景が飛び込んできた。岩肌に刻まれた無数の住居。行き交う魔族たちの姿。子供の笑い声。鍛冶の槌音。香辛料の匂い。
そしてその奥——都市の最深部に、一際巨大な建造物がそびえていた。
黒曜石のような光沢を放つ神殿。
ザガンが、その方向を見据えて言った。
「あれが、先代魔王の記録保管庫です」
ヴァルゼンは、その荘厳な建物を見上げた。
先代の魔王。自分に王位を押しつけた、圧倒的な力を持っていたはずの前任者。その記録が、あの中に眠っている。
(……僕がそれを見て、何がわかるんだろう)
足が震えていた。寒さのせいではなかった。
だが、後ろからエルヴィンの手が肩を叩いた。
「行こうぜ、ヴァルゼン。お前のルーツだ」
その言葉に、ヴァルゼンは小さく頷いた。
——頷きながら、内心では盛大に叫んでいた。
(ルーツとか言われても、僕がここで見つけるのは「やっぱり場違いでした」って事実だけだと思うんだけど!!)




