変わる日常
変わる日常
いつの間にか、ヴァルゼンは忙しくなっていた。
朝起きると、まず虚淵の気配を確認する。これはもう習慣になっていた。目を閉じて意識を広げると、大陸の各所に散在する虚淵の波動が感じ取れる。大きいもの、小さいもの、拡大しそうなもの、安定しているもの。
(南東に大きめの気配。でも安定してる。東の二つは昨日より少し弱くなった。北西のは——ちょっと嫌な感じ。夕方までに動くかもしれない)
それをフェリクスに報告する。フェリクスが地図上に情報を落とし込み、対応の優先順位をつける。緊急性が高い場合はエルヴィンが即座に出発を決め、グリゼルダが護衛の段取りを整え、ミラベルが救護の準備をする。
この流れが、一日に三回は繰り返された。
「ヴァルゼン殿、北西の気配はどうですか」
「少し拡大してます。明朝までにはっきりすると思います」
「では、周辺の町に事前通達を出しましょう」
「お願いします」
いつの間にか、普通に会話ができるようになっていた。以前なら「いや、あの、その……」と前置きを入れて、しどろもどろになっていたはずだ。虚淵に関する報告だけは、不思議と迷いなく言葉が出てくる。
(たぶん、嘘がないからだ。感じたことをそのまま言えばいい。解釈も推測もいらない。だから——楽なんだ)
だが「楽」と感じたこと自体に、ヴァルゼンはぎくりとした。
(僕が。魔王の仕事を。楽だと思ってる?)
そんな自問をしている暇はなかった。各地から感謝状や救援要請が届き始めたのだ。
「ヴァルゼン様宛の書簡が七通です」
ザガンが淡々と報告した。
「内訳は——ヴィルト町からの感謝状が一通。エルデの村からの農作物の贈呈状が一通。東方のカイラス領から虚淵の情報提供依頼が一通。南方のドーラ港から救援要請が一通。あとの三通は——」
「三通は?」
「『魔王様に会いたい』という一般市民からの手紙です」
(ファンレター!? 魔王にファンレターが来るの!?)
エルヴィンが書簡の束を覗き込んだ。
「おお、ヴァルゼン。大人気だな! 大陸中が魔王に頼り始めてるぞ」
「頼られても困るんですけど……」
「困ることないだろ。お前がいなきゃ助からなかった人たちだ」
その言葉は、軽い調子だったが、事実だった。
ミラベルが手紙の一通を読み上げた。
「『魔王様のおかげで、夫が無事に帰ってきました。一言お礼が言いたくて筆を取りました』——だそうです、ヴァルゼンさん」
「……」
ヴァルゼンは黙った。
手紙を書いた人の顔を知らない。夫が何の危機に遭ったのかも、具体的にはわからない。でも——ヴァルゼンが虚淵の気配を感知し、避難指示を出したことが、どこかで誰かの命を救い、その家族のもとに帰してあげた。
(いつの間にか忙しくなってる。のんびり暮らしたかっただけなのに)
宿の食堂で、各地からの報告書を整理していると、グリゼルダが茶を持ってきてくれた。
「ヴァルゼン殿。少し休まれた方がよい」
「あ、ありがとうございます。でも、まだカイラス領への返答が——」
「それはフェリクスに任せよ。殿はまず休むべきだ」
珍しいことだった。グリゼルダが「休め」と言うのは。
「ヴァルゼン殿は、自分の体を後回しにする癖がある。それは王として——いや」
グリゼルダが一瞬、言葉を切った。
「人として、よくないことだ」
その声に、いつもの武人の硬さとは少し違う、柔らかいものが混じっていた。
ヴァルゼンは茶を受け取り、一口飲んだ。温かかった。
(変わったな、日常が)
少し前まで、ヴァルゼンの日常は「怯えて逃げて震える」の繰り返しだった。それは今も変わらない——変わらないはずだ。だが、合間に「感知して報告して、結果として誰かが助かる」という要素が加わっていた。
(「最弱の魔王」から「最重要の魔王」に——なんて、まさかな。僕はまだ最弱だ。何も変わってない)
だが何かが変わりつつあることを、ヴァルゼン自身が薄々感じ始めていた。
その日の夕方、宿の前に見知らぬ人影が現れた。
全身を黒い鎧で覆った使者が、一行の前に跪いた。
「魔王ヴァルゼン陛下。魔族の古都ゼル・ヴァーラスよりの使者です」
鎧の隙間から覗く肌は、魔族特有の青みがかった色だった。額の角が、夕陽に鈍く光っている。
ヴァルゼンの足が、反射的に一歩退いた。
(魔族の使者。古都からの使者。何。何が来たの)
使者が顔を上げた。その目に、恐怖と敬意が入り混じっていた。
「先代魔王の記録をお見せしたく、ぜひ古都へお越しいただきたく参りました」
先代魔王の記録。
ヴァルゼンの心臓が、大きく鳴った。




