救えた日
救えた日
その日、ヴァルゼンの朝は最悪の目覚めから始まった。
宿の窓から差し込む朝日がまぶしい。隣のベッドではエルヴィンが豪快ないびきをかいている。平和な朝——のはずだった。
背筋に、冷たいものが走った。
(……また、あの感じだ)
嫌な予感、というには具体的すぎる。皮膚の下を何かが這うような、空気の色が変わるような、言葉にしづらい不快感。魔力感知——ヴァルゼン自身はそんな大層な名前で呼んでいないが——が、遠くの異変を捉えていた。
南東の方角。距離にして半日ほどの場所に、小さな集落がある。そこに向かって、虚淵の気配が忍び寄っていた。
「エルヴィンさん! エルヴィンさん!」
ヴァルゼンがエルヴィンの肩を揺さぶった。寝起きの勇者は不機嫌を通り越して凶暴だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「んぁ……なんだヴァルゼン、まだ夜明け前じゃ——」
「虚淵です! 南東の集落に、虚淵が来ます!」
エルヴィンの目が、一瞬で覚醒した。
そこからの動きは早かった。エルヴィンが号令をかけ、グリゼルダが武装を整え、フェリクスが地図を広げ、ミラベルが回復薬を確認する。セラフィオンだけが壁際で腕を組んだまま、静かにヴァルゼンを見つめていた。
(その目やめてほしいんだけど……観察されてる感じがものすごく怖い……)
一行は全速力で南東へ向かった。
集落に到着したのは、虚淵の気配が本格的に濃くなる二刻前だった。
「皆さん、避難してください!」
ヴァルゼンは集落の広場で声を張り上げた。裏返った。完全に裏返った声だったが、内容は伝わった。
「虚淵が来ます! 南の森の方角から、たぶんあと二刻で——」
「おいおい兄ちゃん、急に何を言って——」
集落の長老が眉を寄せた。当然の反応だった。空は晴れ、鳥は鳴き、虚淵の兆候など目に見える範囲にはない。
「あの、信じてください。僕の……勘、みたいなものなんですけど……」
(勘って言ったら余計に信用されないだろ。でも魔力感知って言ったらもっと意味がわからないだろうし)
ヴァルゼンが言いよどんだそのとき、フェリクスが前に出た。
「この方の予知は、過去七回連続で的中しています。誤差は最大でも四半刻。むしろ疑う方が不合理です」
(七回も当たってたの!? 僕、数えてなかった……)
「それに」
エルヴィンが胸を張る。
「この方は魔王ヴァルゼンだ。虚淵の声を聞ける唯一の存在——信じない理由があるか?」
(虚淵の声は聞こえてない! 嫌な感じがするだけだ!)
しかし、集落の住民たちの顔色が変わった。「魔王」の名は、この地方にも届いていたらしい。
避難が始まった。老人を背負い、子供の手を引き、家畜を追い立て、住民たちは集落の北側へと移動していく。ヴァルゼンも荷物運びを手伝った。重い木箱を持ち上げようとして腰が砕けかけたが、グリゼルダが片手でひょいと持ち上げてくれた。
「ヴァルゼン殿、そのような雑事は我々に任せよ」
「いえ、僕も何か——」
「指揮官が荷を運ぶ姿は、兵の士気を上げるものだ」
(指揮官じゃないし、士気とかそういう話じゃなくて、ただ手伝いたいだけなんだけど)
避難が完了したのは、ヴァルゼンが予測した時刻の半刻前だった。
そして——来た。
南の森の上空が、歪んだ。空間そのものが裂けるように暗黒が広がり、木々が音もなく消えていく。虚淵。世界を食い潰す虚無の裂け目。その漆黒は光すら飲み込み、見つめているだけで足元の感覚が薄れていくような恐怖を放っていた。
集落が、飲まれた。
家屋が、畑が、井戸が、柵が——何もかもが虚淵に吸い込まれ、跡形もなく消えた。まるで最初からそこには何もなかったかのように。
北側の丘の上で、住民たちは息を呑んでその光景を見つめていた。
静寂が続いた。
そして——。
「た、助かった……」
誰かがそう呟いた。
堰を切ったように、あちこちで声が上がった。泣く者。笑う者。しゃがみ込む者。隣の人間にしがみつく者。
「魔王様が言った通りだ! あのまま集落にいたら——」
「助かった! 魔王様のおかげで助かった!」
「魔王様万歳! 魔王様万歳!」
歓声が丘を揺らした。
(いや、僕は逃げろって言っただけで……)
ヴァルゼンは困惑していた。自分がやったことは、嫌な予感を伝えて、避難を呼びかけただけだ。虚淵を退けたわけでもない。戦ったわけでもない。ただ「逃げましょう」と言っただけだ。
住民たちが駆け寄ってきた。手を握られ、背中を叩かれ、涙で濡れた顔で感謝された。子供が足にしがみついてきた。老婆がヴァルゼンの手を両手で包み、何度も何度も頭を下げた。
「あの、いえ、僕は本当に——」
「謙虚な魔王様だ」
「やっぱり魔王様は違ぇなあ」
(聞いてない。誰も僕の話を聞いてない)
ヴァルゼンの抗議は、歓声の中にかき消された。いつものことだった。もう慣れたと思っていたが、慣れていなかった。
少し離れた場所で、セラフィオンがこちらを見ていた。
金色の瞳に、いつもの観察者の冷徹さがあった。しかし——その視線の奥に、かすかに別の色が混じっているような気がした。
セラフィオンが歩み寄ってきた。
「お前がいなければ」
低く、平坦な声だった。
「この者たちは消えていた」
事実だった。
感情を排した、ただの事実の報告。しかしその言葉は、住民たちの歓声よりもずっと重く、ヴァルゼンの胸に落ちた。
「……」
ヴァルゼンは黙った。
否定の言葉が浮かばなかった。「たまたまです」とも「運がよかっただけです」とも言えなかった。だって——あの子供たちが消えていたかもしれないのだ。あの老婆が、あの長老が、あの若い夫婦が。
足にしがみついている子供を見下ろした。五歳くらいの女の子だった。泥だらけの顔で、ヴァルゼンを見上げて笑っている。
この子が、消えていた。
その事実が、胸の奥のどこかに、静かに刺さった。
「ヴァルゼンさん」
ミラベルが隣に来て、そっとヴァルゼンの袖を引いた。
「泣いてますよ」
「え、嘘、泣いてない泣いてない」
泣いていた。
自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。悲しいのではなかった。嬉しいのでもなかった。ただ——よかった、と思ったのだ。
この子が、消えなくてよかった。
「……全員、無事ですよね」
「はい。一人も欠けていません」
ミラベルが微笑んだ。
ヴァルゼンは袖で目元を拭い、鼻をすすった。魔王がこんなところで泣いていたら格好がつかない。もっとも、格好なんて最初からついていないのだが。
丘の上で、夕日が虚淵の残滓を照らしていた。
集落は消えた。しかし——人は、消えなかった。
それだけのことだった。それだけのことが、今のヴァルゼンには、何より重かった。




