虚淵の声
虚淵の声
虚淵の対処が、日常になりつつあった。
この二週間で、ヴァルゼンが察知した虚淵の気配は八回。そのうち七回は事前に避難が間に合い、被害は最小限に抑えられた。残る一回は誤報——ヴァルゼンが寝ぼけて「嫌な感じがする」と言ったら、実際には隣室のエルヴィンの寝言が原因だった。
つまり、実質的な的中率は百パーセントだった。
「ヴァルゼン殿の予測精度は、もはや偶然で片付けられるレベルではありませんね」
フェリクスが地図を広げながら言った。一行は中継都市の宿で作戦会議をしていた。地図上には、これまでヴァルゼンが虚淵の発生を予測した地点が赤い印で記されている。
「的中率百パーセント。誤差は最大でも四半刻。これは予測ではなく、感知です。ヴァルゼン殿は虚淵の動きをリアルタイムで捉えている」
(リアルタイムとか大げさな。ただ嫌な感じがするだけなんだけど)
「虚淵と会話できる魔王、か」
エルヴィンが腕を組んだ。
「すごいな、ヴァルゼン。そんな能力があったなんて」
「いや、会話はしてないです。全然してないです。嫌な感じがするだけで——」
「嫌な感じがする、か」
セラフィオンが壁際から口を開いた。金色の瞳がヴァルゼンを見つめている。
「その『嫌な感じ』を、もう少し詳しく述べよ」
「えっと……なんというか、空気の色が変わるような。皮膚の下に何かが這うような。方角と距離が、なんとなくわかるんです。近いと強くて、遠いと弱い。大きいと鳴るような感じで、小さいとざわつくような感じで……」
ヴァルゼンは言葉を探しながら説明した。自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
セラフィオンの翼が微かに明滅した。
「魔力感知の中でも、極めて特殊な型だ。通常の魔力感知は魔力の濃度や属性を捉えるが——汝のそれは、魔力の流れそのものを感じている」
(そうなの? 普通じゃないの?)
「普通ではない。我の知る限り、歴代の魔王ですらここまでの精度で魔力の流れを感知した者はいない」
ヴァルゼンは困惑した。褒められているのか、分析されているのか、わからなかった。おそらく後者だ。セラフィオンは褒めるタイプではない。
「では今日の対処に参りましょう」
フェリクスが地図上の一点を指した。
「ヴァルゼン殿、今朝方感じたという東方の気配——方角と距離は」
「えっと……東北東。半日くらいの距離に、小さな町があると思うんですけど……そこの南側に、ざわつきがあります。まだ小さいけど、夕方には大きくなりそうな……」
フェリクスが地図上に赤い印をつけた。
「東北東に半日。ヴィルト町ですね。住民は約三百人。南側に森林地帯がある」
「急ごう」
エルヴィンが立ち上がった。
「避難指示を出す。三百人なら半日あれば間に合う」
一行は即座に出発した。
ヴィルト町に到着し、避難を完了させたのは、虚淵の発生予測時刻の一刻前だった。
そして予測通り——町の南側の森林が虚淵に飲まれた。
住民たちは北側の丘から、自分たちの生活圏が消えていく様子を見つめていた。恐怖と安堵が入り混じった空気の中で、ヴァルゼンは静かに虚淵を観測していた。
(やっぱり来た。予想より少し西にずれたけど、ほぼ合ってた)
だが——それだけではなかった。
虚淵を感知し続ける中で、ヴァルゼンはある違和感に気づいた。
(あれ。この虚淵、前に感じた虚淵と——似てる?)
先週、別の場所で発生した虚淵。その二つ前に発生した虚淵。さらにその前。
似ている。いや、似ているどころではない。同じ波動だ。距離も場所も違うのに、根っこの部分で繋がっているような——
(虚淵は「増えている」んじゃない。「つながっている」?)
一つ一つがバラバラに発生しているのではない。地下の水脈のように、見えない部分で一つの大きな現象が広がっていて、その表面に出てきた部分が個々の虚淵として観測されている——
(もしそうだとしたら、これは——)
ヴァルゼンの顔が青ざめた。
個別に対処しても意味がない。根っこが一つなら、いくら表面を塞いでも次から次へと現れる。
「ヴァルゼンさん? 顔色が悪いですよ」
ミラベルが心配そうに覗き込んだ。
「あ、いえ。大丈夫です。ちょっと——考えてただけです」
大丈夫ではなかった。だが今の段階では、確証がない。嫌な感じがするだけで、証拠はない。
セラフィオンが、じっとヴァルゼンを見つめていた。金色の瞳が——何かを読み取ろうとしている。
「汝。今、何を感じた」
「……虚淵が、繋がってるような気がしたんです。バラバラじゃなくて、一つの大きなものの——断片みたいに」
セラフィオンの翼が止まった。明滅が、完全に止まった。
それは——神使が衝撃を受けたときの反応だった。




