最初の証言者
最初の証言者
白髪の村長が、杖をつきながら草原を歩いてきた。
背は曲がり、足取りもおぼつかない。だがその目には確固たる意志が灯っていた。この場所まで来るのに、相当な距離を旅してきたはずだ。精霊からの呼びかけに応えて、この白髪の老人は——杖一本を頼りに、ここまで歩いてきたのだ。
村長が立ち止まった。ヴァルゼンの目の前に。
「魔王、ヴァルゼン様」
深く、深く、頭を下げた。白い髪が風に揺れる。老いた体が小刻みに震えている。長旅の疲労だろう。
(あ、あの、頭を上げてください。そんな体で無理をしないで……)
ヴァルゼンは慌てて手を伸ばしたが、村長は顔を上げなかった。
「私はエルデの村の村長、ゲルハルトと申します。魔王様のお力で疫病から救われた村の者です」
セラフィオンが視線を動かした。金色の瞳がゲルハルト村長を捉え、観測する。嘘か真か、感情の質、言葉の誠実さ——神使の目は全てを見通す。
「証言を許可する。述べよ」
ゲルハルト村長がようやく顔を上げた。皺だらけの顔に、涙の筋が光っていた。この老人は、泣きながらここまで歩いてきたのかもしれない。
「あの日、村は死にかけておりました」
静かな声で語り始めた。草原に、その声だけが響く。風が止み、精霊たちの光が静まり、世界がゲルハルトの言葉に耳を傾けているようだった。
「原因不明の疫病が広がり、子供から順に倒れていきました。薬も効かず、僧侶の治療も届かず。近隣の町に助けを求めましたが、疫病を恐れて誰も来てくれませんでした。あと三日もてば御の字だと、誰もがそう思っていました」
ヴァルゼンは記憶を辿った。あの村。確かに行った。だが——
(あれは、虚淵の気配がして、怖くて逃げようとしただけだ。村に入ったのも、道に迷ったからで——)
「そこに、魔王様がいらっしゃった」
村長の声が震えた。
「魔王様は村に足を踏み入れた瞬間、何かを感じ取られたようでした。村の空気を嗅ぎ、地面に手をつき、そして——『この村の下に、何かある』と仰った」
(言った。言ったけど、あれは虚淵の気配が地面から湧いてきてて、気持ち悪かったから思わず口に出ただけで——)
「その一言で、全てが変わりました。フェリクス様が調べてくださり、村の地下に虚淵の余波が溜まっていることが判明したのです。それが疫病の原因でした」
フェリクスが観客席で小さく頷いた。あの日のことを覚えているのだろう。
「フェリクス様とミラベル様が余波を浄化し、疫病は嘘のように消えました。三日間で全員が回復したのです。子供たちも、年寄りも。もう助からないと思っていた者たちが——全員、立ち上がったのです」
村長の声がひときわ震えた。
「しかし——最初に異変に気づかれたのは、魔王様です。魔王様がいらっしゃらなければ、我々は今日ここにはおりません」
村長が再び頭を下げた。
その後ろに控えていた村人たちが、次々と頭を下げた。十人、二十人。男も女も老いも若きも。中には小さな子供を抱いた若い母親もいた。
「魔王様のおかげで、助かりました」
「うちの子は、あの時三歳でした。今は元気に走り回っております」
「村は今、近隣で一番の豊作を誇っております。若者が戻ってきたんです。魔王様が守る村だと噂が広がって」
「全て、魔王様のおかげです」
口々に語る感謝の言葉が、草原に広がっていった。
(全部偶然なんだけど。僕はただ怖がっていただけなんだけど。気持ち悪くて地面に手をついただけなんだけど)
だが——声に出せなかった。
村人たちの目に浮かぶ感謝が、あまりにも真摯だったから。あの子供を抱いた母親の目には、涙と感謝と——生きていることへの喜びが、溢れていたから。
セラフィオンが村長を見つめていた。金色の瞳の幾何学模様が、通常より速く回転している。観測眼が全ての証言を分析し、真偽を判定している。
「この者たちの証言に、虚偽はない」
セラフィオンが静かに言った。それは神使としての正式な判定だった。観測眼による絶対的な真偽判定。嘘は一つもない。
「だが——」
金色の瞳がヴァルゼンに向けられた。
「汝はこれを、善行と認識しているか」
「え……」
「問うている。汝はこの出来事を、善行として行ったのか。意図して、人を救おうとして行動したのか」
ヴァルゼンは口を開きかけて、閉じた。
正直に言えば、善行として行ったわけではない。道に迷って、虚淵が怖くて、たまたま口に出しただけだ。人を救おうなんて崇高な志は、一ミリもなかった。
「……いいえ」
正直に答えた。嘘はつけなかった。
「僕は、善行として行ったわけじゃありません。たまたま気づいて、たまたま言っただけです」
草原が静まり返った。
エルヴィンが息を呑んだ。フェリクスのモノクルが光った。グリゼルダが眉を動かした。
そしてミラベルが——予想通り——泣いた。
「たまたまで人の命を救える方が、どこにいるんですか……!」
叫ぶような声だった。感情が溢れていた。
「たまたまだろうと、偶然だろうと——救われた命は本物です! あの子供たちは生きてるんです! それが、善行じゃなくて何なんですか……!」
その叫びに、村人たちが一斉に頷いた。
ヴァルゼンは返す言葉がなかった。
そして——証言者の列は、まだ続いていた。丘の向こうから、新たな人影が近づいてくるのが見えた。二つ目の集団が、草原へと歩いてきていた。




