最後の試練
最後の試練
徳の試練は、天空の闘技場ではなく、地上で行われた。
闘技場の麓に広がる白い草原。風が穏やかに吹き、草の穂先が光を弾いている。空は高く、雲一つない。穏やかな場所だった。
穏やかすぎて、逆に怖い。
(何が来るんだ。武力は殴られた。知恵は頭が真っ白になった。徳って——何をさせられるんだ)
ヴァルゼンの足は、草原に降り立った瞬間から震えていた。もはや震えていない時間の方が少ない。この数日間で、ヴァルゼンの足は人類史上最も多く震えた足になっているかもしれない。
セラフィオンが草原の中央に降り立った。白と金の長衣が風になびき、三対の翼が陽光を反射している。その姿は神々しく、美しく——そして、容赦がなかった。
「徳の試練を説明する」
ヴァルゼンは背筋を伸ばした。伸ばしたが、すぐに猫背に戻った。緊張すると姿勢が悪くなるのは昔からの癖だった。背筋を伸ばそうとする意思と、体を丸めて小さくなりたい本能が拮抗している。
「この試練は、武力や知恵とは性質が異なる。お前自身の善行を証明せよ」
(善行?)
「お前がこれまでに行った善行を、ここで述べよ。証拠を示せ。それが徳の試練だ」
ヴァルゼンは瞬きした。二度、三度。
(善行……善行……善行って何だっけ?)
記憶を掘り返した。必死に掘り返した。魔王の座に就いてからの日々を、一日一日、丁寧に遡った。
玉座に座らされていた日々。配下のゴブリンに陰口を叩かれていた日々。大戦が終わって居場所を失い、放浪していた日々。エルヴィンに出会って、壮大な誤解でパーティに入れられた日。そこからの旅——虚淵を見つけて逃げ、強硬派に遭遇して腰を抜かし、ミラベルに泣かれてうろたえ、フェリクスに分析されて冷や汗をかいた。
(善行……善行なんて、あったか?)
何も思いつかない。
自分がしたことは、怯えて、逃げて、震えて、それだけだ。人を助けた記憶——あるにはあるが、どれもこれも偶然の産物だ。たまたま虚淵の気配を感じて叫んだら、結果的に避難になっていた。たまたまお腹が鳴ったら、結果的に戦争が止まった。たまたま道に迷ったら、結果的に困っている人を見つけた。
全部、たまたまだ。意図して善行をしたことなど、一度もない。
(善行と呼べるものが、一つもない。これ、致命的じゃないか? 武力は〇・三秒で負けて、知恵は「わからない」って言って、徳も「ありません」って——三冠王じゃん、ダメな方の)
ヴァルゼンの顔が、みるみる青ざめていった。
観客席——といっても草原に設けられた仮設の席だが——で、パーティメンバーたちが反応した。
「おや」
フェリクスがモノクルを押し上げた。分析家の目が、ヴァルゼンの表情の変化を捉えている。
「ヴァルゼン殿が、善行を思い出せないようですね」
「え? なんでだ? あいつ、善行しかしてないだろ」
エルヴィンが首を傾げた。本気で不思議そうだった。エルヴィンの中では、ヴァルゼンは善行を呼吸するように行う存在なのだ。
「ああ、なるほど。善行が日常すぎて記憶に残っていないのか。どれほどの徳を積めば、そうなるんだ」
(違う! 善行がないから思い出せないんだ! 日常すぎるんじゃなくて存在しないんだ!)
フェリクスが腕を組み、深く頷いた。顎に手を当て、学者が定理を導出するような真剣さで分析を始めた。
「特別なことだと認識していない——つまり、善行が自然体なのですね。息をするように善を為す。人を助けることが当たり前すぎて、善行という概念に分類されない。これは……ある意味、武力や知恵以上の才能かもしれません」
(息をするように善を為してない! 息をするように怯えてるだけだ!)
グリゼルダが静かに呟いた。
「真の善人とは、善行を善行と気づかぬ者のことか」
ミラベルがこくこくと頷いた。すでに目が潤んでいた。臨戦態勢だった。この僧侶は、感動的な場面が近づくと涙腺が先に反応する。
「ヴァルゼンさんは、いつもそうです。自分のしたことに気づいていない。だから、善行を問われても答えられないのです……」
(ミラベル、お願いだから泣くのはもう少し待って。まだ何も起きてないのに)
ザガンは闘技場の隅で腕を組み、静かに状況を見守っていた。琥珀色の瞳には、複雑な光が宿っている。
ヴァルゼンは頭を抱えた。文字通り、両手で頭を抱えた。草原の真ん中で、魔王が頭を抱えている。威厳のかけらもない光景だった。
善行が思い出せない。思い出せないまま、時間だけが過ぎていく。セラフィオンは急かさない。ただ観ている。あの金色の瞳で、じっと。
(どうしよう。何も言えない。このまま黙っていたら、試練に失敗する。失敗したら——「消える」とか言ってたよな、この人。消えるって何だ。物理的に消滅するのか。それとも記録から消されるだけなのか。どっちにしても嫌だ)
冷や汗が背中を伝った。胃が縮む。喉が渇く。
そのとき——遠くから、人の気配がした。
草原の向こう、丘の稜線を越えて、複数の人影が近づいてくるのが見えた。
ヴァルゼンは目を凝らした。逆光で最初は見えなかったが、やがて先頭の人物の輪郭がはっきりした。
杖をついた老人。白い髪。曲がった背中。
(あれは——疫病の村の、村長……?)
ヴァルゼンの目が見開かれた。
なぜ、こんな場所に。
セラフィオンの翼が、かすかに明滅した。
「……来たか」
その呟きには、想定の色が——いや、想定外の色が混じっていた。精霊たちの情報網で証言者を集める手配はしていたが、これほどの人数が来るとは思っていなかったようだ。
丘の向こうから、人影はどんどん増えていった。十人。二十人。三十人。
証言者たちが、ヴァルゼンの善行を証明するために——大陸の各地から、集まり始めていた。




